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袋小路の残像

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 おじさんがいた位置は、あすなが何度か顔を向けた場所だったのだが、あすなは急に不思議に思った。
――その場所には、さっきまで誰もいなかったはずなのに――
 という意識があったからだ。
 そこで思い切って聞いてみた。
「おじさんは、いつからその場所にいたの?」
 と聞くと、
「君のお母さんから電話がある十分くらい前からここにいたよ」
 と言われた。
 十分前というと、あすながまだ人間観察をしていた時間ではないか。おじさんがいた場所はあすなから見ても、十分に視界に入っているところで、そんなところに人がいたら、絶対に人間観察をしていたはずである。しかし、まったくその場所に人の気配を感じたわけでもないので、観察に値するはずもなかった。
 あすなはそこにいる人がおじさんであろうがなかろうが、今となってはあまり関係なかった。自分がそこにいたと言っている人に気付いていなかったことに違いはないのだ。
 もちろん、おじさんの、
「十分くらい前からそこにいた」
 という言葉を全面的に信じたからであるが、おじさんがそのことでウソをついていたとして、そのメリットはどこにあるのかと思えば、全面的に信じてもいいような気がした。
 おじさんは、自分があすなを見つけることができなかったことに対して、
「悪かった」
 と認めている。
 あすなは恐縮しているわけであるが、そんな状態でその場に自分がいたいなかったというのは二の次の問題なので、そのことについてウソをつく理由はどこにも見当たらない気がしたのだ。
 おじさんと会ってから、その顔をまじまじと見ていると、やっとおじさんの顔を思い出せたような気がした。
 おじさんはまったくと言っていいほど変わっていなかった。一年くらい前に会った時と、変わっていないおじさんに対して、あすなはホッとした気分になっていた。
「それにしても、あすなちゃんは、この一年で大きくなったね」
 と感心したかのようにおじさんは言った。
 あすなに自分が大きくなったという印象はないし、会っている人も親や学校の先生、クラスメイトなので、変化があったとしても気付かれるはずもない。特に一番接しているクラスメイトも皆同じ年ごろなので、同じように成長している。目の高さは変わりがないのだから、その変化に気付きにくいのは当然である。実際に同じクラスの友達で、成長したと思える人は誰もいなかった。実際には、もう少し成長するとその違いを歴然と感じることができるようになるのだが、その頃にはまだ何も感じることはできなかった。
 おじさんは、あすなを制して、
「じゃあ、そろそろ遊園地に行こうか?」
 と言って、あすなに切符を渡してくれた。
「ありがとう、おじさん」
 おじさんは、段取りよく、最初から切符を買っていてくれたのだ。

                  遊園地のピエロ

 これから行こうとしている遊園地は、この駅から急行電車で三つ目くらいの駅だった。所要時間としては二十分くらいで着く場所で、駅からさほど歩くこともなく、遊園地のいる口に辿り着くことができる。
 その駅の乗降客のほとんどは遊園地利用客と言ってもいいだろう。休日などは急行電車に結構な人が乗っていても、この駅でたくさんの人が降りる。そのほとんどが家族連れで、半年くらい前に家族で来た時に感じた思いを思い出していた。
 小学生の低学年の考え方など、たかが知れているはずなので、今こうして話していること、つまりは先ほどの待ち合わせの時間帯の人間観察にしても、実際にその時に感じた思いというよりも、もっと成長してからその時の記憶を呼び起こして思い出として結び付けたものだった。
 本人にはその意識はないかも知れないが、その時の記憶は大人になっても忘れていなかったということで、かなりの印象に残っていたのは事実だった。
 それは後になって作り上げた記憶が作用しているからではないだろうか。大人になってからそのことに気付くことになるのだが、あすなはその時何を感じ、何を見たのだろう。そのことが大人になってからの記憶位置づけに大きな影響を与えたということは確かではないだろうか。
 あすなは小学生の頃の記憶がそんなに残っているわけではない。むしろ小学校時代の記憶というのは、
「暗黒の時代」
 という意識が強かった。
 中学、高校時代の方が孤独だったような気がするが、小学生の頃は孤独という言葉とは違うものがあったような気がする。やはり思春期を通り抜ける前、そしてまさに通り抜けている時、そして通り抜けた後とでは微妙に感覚が違っているに違いない。
 その間隔の違いが、
「時間が経てば経つほど、大きかったのだ」
 という思いを抱かせたとするならば、時間というものが自分にどのような影響を与えたのかを思い知ることになり、次第に子供の頃の記憶は、今の思い出そうとしている意識から何かを着色されたかのように思えるのだった。
 おじさんと来たその日は平日だったので、それほど人はいなかった。入り口も閑散としていて、自分の知っている遊園地ではない気がしたくらいだった。
 中に入ると、大きな花壇が正面にあり、必要以上な広さを感じさせる広場になっていた。だが考えてみると平日に来るから必要以上に広いと感じるだけであって、日曜日などは、人でごった返しているに違いなかった。その時感じたのは、
――今のこの広さと、人でごった返している時のこの場所の広さとでは、どっちが広いと感じるんだろう?
 ということだった。
 同じ場所であっても、環境が違えば感じる広さも若干違ってくるという意識は小学生のあすなでも分かっていたような気がする。普段は子供のような考えしか持っていないあすなだったが、時々大人顔負けの考えを持っていたような気がしていたあすなには、広さの感覚というものが、その大人顔負けの考えだったのではないかと思えて仕方がなかった。
 広場を抜けると、正面にはヨーロッパ中世の建物が建っていた。そこが遊園地の事務所であり、お土産屋や休憩所が設けられているところだった。子供用には遊園地のアトラクション、大人にはこの建物の中にある施設、例えば温泉などがあるようで、そちらで楽しんでもらえるようにしていたようだ。
 これももっと大きくなって分かったことだったが、中世のヨーロッパの建物という意識は、小学生だったその頃からのものだったように思えた。どうしてそう思ったのかは根拠があるわけではないが、自分の中での信憑性は高いものであったことには違いない。
 遊園地のあちらこちらからかすかではあるが話し声が聞こえた。何ら他愛もない話だったように思うのは、笑い声が混ざっていたからだ。それを聞いて、その声の主が園内のスタッフであること、そして、客がほとんどいないことから、暇を持て余して、無駄話をしているということに気付いた。
 そして、その後に感じたことは、
「今日はお客さんよりも、スタッフの方が多いんだわ」
 という思いで、つまりはほぼ貸し切り状態になっているということを表していると感じた。
作品名:袋小路の残像 作家名:森本晃次