袋小路の残像
ちなみに今ではその人を聖徳太子と言わないらしいが、その頃はまだ聖徳太子という名前が一般的であり、今のように名前が変わったとしても、それを認識しているのは、これから学校で習う人たちか、それとも歴史好きの人に限られるだろう。母親が歴史を好きだなどということは聞いたことがないので、母親は今でも聖徳太子は聖徳太子だと思っているに違いない。
一人の人の声を認識できたような気がすると、その近くの人の声も聞こえてくるような気がする。そのうちに聞き耳を立てている自分を感じるのだが、その時にはさっきの男性も、その横にいた女性の印象も消えていた。
ふと我に返ってその二人のことを思い出し、さっき二人がいた方向を見ると、すでに二人の姿は消えていた。
――待ち合わせの人が来たんだろうか?
と思い、二人の顔を思い出そうとしたのだが、
――あれ?
さっきまで目の奥に焼き付いていたはずの二人の顔がまったくイメージできなくなってしまっていた。
あれだけ穴が開くほど見つめていたはずなのに、こんなにも簡単に顔を忘れてしまうなんて、自分でも信じられなかった。
そう思っていると、今度はさっきまで一人一人の声が認識できているように思っていたのがウソのように、ざわつきだけが残ってしまっていた。
――どうしてなのかしら?
と感じたが、むしろこれが本当のことなのだ。
ざわつきの中で一人一人の声を認識などできるはずがない。そう思っていたはずの自分に戻ってきたのだ。
要するに今が自分の普通の精神状態だと言えるのではないだろうか。
いろいろな思いが頭の中を駆け巡った。我に返って考えてみると、
――こんなことを考えているのだから、時間が経つのが遅いのも分かるというものだわ――
とあすなは感じた。
再度時計を見ると、そろそろ約束の時間が近づいていた。時計の誤差もあるかも知れないが、それでもほぼ約束の時間と言ってもいいだろう。そういえば母親から、
「おじさんは、約束の時間に遅れることはないので、お前も少し早めに行っておいた方がいいわよ」
と言われていた。
あすなが時間に遅れるのが嫌な性格であることは分かっていたはずなので、あくまでも確認という意味に違いない。そういう意味でも、そろそろおじさんが来ていないか、探してみる必要があるようだった。
この場所に来てから、駅前の様子は結構変わってしまっていた。さっきまでは人通りがもっと多かったような気がしていたのに、今では目の前を歩く日十まばらであった。人待ちの姿もそんなに目立つわけではない。
「これならおじさんとの待ち合わせにそんな気を遣うことはないわ」
と思った。
おじさんとはここ一年会っていなかった。おじさんの方はこの一年でそんなに変わったということはないとは思うが、自分の方の一年というと、結構大きくなっているかも知れない。
親のように毎日顔を合わせている人には分からないかも知れないが、一年ぶりに会う人に、果たして自分があすなだと分かるだろうか。それを思うとおじさんが自分を見つけるよりも、自分がおじさんを見つけなければいけないということになるのだろう。
急に使命感のようなものを感じたあすなは、おじさんの姿をコンコースに追い求めた。頭の中では、
「確か、こんな感じの人だったはず」
という意識はあったが、思い出そうとすると、ハッキリと思い出すことはできない。
漠然とした記憶というのは、思い出そうとすればするほど曖昧になってくるようで、要するに自分の記憶に自信が持てないのだ。
それは、よほどの自信を最初から持っていなければ、ちょっとした不安でも、それが現実のものとなってしまうという意識の表れなのかも知れない。あすなは、本当に自分がおじさんを見つけることができるのか、不安を感じずにはいられなくなってしまった。
しかもあすなは、おじさんを待っている間、暇つぶしとでもいえばいいのか、人間観察に余念がなかった。そのせいもあってか、いろいろな人の顔が頭の中にシルエットとして残ってしまい、シンクロ状態になってしまっていると言っても過言ではないだろう。
「おじさんは確か電車でやってくるって言っていたっけ?」
そう思い、最初から改札口の正面で待っているのだが、我に返ってから改札口を気にして眺めるようになると、穂との行き来が思ったよりも頻繁であることに気が付いた。
思ったよりもというのは、先ほどまでに比べてコンコース内の人の数が減少してきたと感じたことで、
「電車の乗り降りも少ないに違いない」
と思っていたにも関わらず、想像以上にコンコースを通る人が多いことが不思議だったからだ。
コンコースを出た人が、自分の目の前を通らないということはありえない。それなのにどうして改札を抜けた人を最初、少なくなったと意識したのか、よく分からなかった。
数十分くらいの間を長いと思うか短いと思うか、そのことが大きく影響してきているように思う。
確かに人間観察をしている間、自分はいつもの自分ではなかったような気がする。気分的にも何かウキウキした気分になっていて、その思いは、
「何か新しいことを発見できそうな気がする」
という思いだったような気がするが、実際に何かを発見できたという意識はない。
我に返ってしまったことで感じたはずの何かを忘れてしまったのかも知れない。だが、もしそうだとすれば、後で必ず思い出すことだと感じたし、発見できたという意識だけは残っているような気がすることから、本当に何か発見できたのかということは疑問が残った。
時間は刻々と過ぎていく。おじさんが現れることはなかった。
「どうしたんだろう?」
肝心のおじさんの携帯電話の番号を聞いていなかった。
これはあすなのミスというよりも母親のミスだろう。あすなはしょうがないので、母親に電話を掛けた。
「おかあさん、おじさんが来ないんだけど」
というと、
「どういうこと? こっちにはおじさんから何も言ってきていないわよ」
と言われた。
「私が見つけ切らないからなのかも知れないんだけど」
というと、
「分かったわ。私がおじさんに連絡を入れて、あなたの携帯に電話をしてもらう」
と言って電話を切った。
すると、少ししてから携帯が鳴ったのに気付くと、それは知らない番号だった。おじさんだということはすぐに分かったので出て見ると、
「悪い悪いあすなちゃん。おじさんが見つけ切らなかったから悪いんだね」
と言って謝っていたが、それはまったくの逆だということが分かっていたあすなは、
「いえ、ごめんなさい。私が見つけなければいけないんだけど」
と言いながら、コンコース内を見渡してみると、そこに一人の男性が電話を掛けているのが見えた。
相手もこちらに気付いたのか、こちらを見ている。あすなは軽く会釈すると、相手はニッコリと笑ってあすなに近づいてきた。二人は電話を切ってその場で正対すると、
「ごめんごめん。おじさんが見つけてあげられなかったね」
といい、あすなは恐縮したが、おじさんの笑顔に救われた気がして、あすなもおじさんに向かって笑顔を見せた。