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袋小路の残像

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 と感じていた。
 小学生のあすなが別次元などという発想を持つのは、結構すごいことなのかも知れないが、その時のあすなには、そんな感覚もなかった。
 部屋の中は暖かく、孤独というよりも自由が優先する環境だった。気の持ちようというのは、その場での快適さに左右するものだったりするものなのではないだろうか。
 静かな部屋で時間だけが過ぎていく。朝食を食べたあすなは、出かける時間まで部屋でボーっとしていた。食事が済んで、後片付けが終わってからも、少しだけ時間が余ったのだ。
 余裕のない中での生活を好まないあすなは、時間にもいつも余裕を持っている。待ち合わせにももちろん相手を待たせるようなことは決してない。約束の時間の十五分前には必ずいつも出向いているので、ほとんどの場合、あすなが一番乗りなのだ。
 そのことはあすなの親しい友達は皆分かっていることであって、中学に入ってから友達同士でどこかに出かける時など、誰もが最初に待ち合わせの場所で探す相手はあすなだという。
「あすながいてくれると安心するわ」
 と、友達からよく言われたが、探すと必ずいる人であるから、安心するというのも当たり前のことなのだろう。
 そんなあすななので、おじさんとの待ち合わせも約束の時間の十五分前には駅まで行っていた。
 その日あすなは家を出る時、何か胸騒ぎのようなものを感じたが、まだ小学生のあすなに、胸騒ぎとはどういうことなのか分かるはずもなく、何となく感じた違和感を、あまり深く考えないようにしていたことで、すぐにその思いは忘れてしまっていた。
 駅までは歩いて十五分ほどで、大人であれば、近すぎず遠すぎずの適度な距離なのだろうが、小学生のあすなには少し遠く感じられた。
 もっとも、小学校までも結構距離があり、しかも途中が坂道だということもあり、通学だけでも結構な労力を要していた・そういう意味では駅までの距離は中途半端であり、休みの日に歩く分には、ちょっときついと思う距離なのかも知れない。
 それでも駅までの十五分程度をほどなく歩くと、思ったよりも疲れを感じなかった。
「おじさんに会えるんだ」
 という気持ちの方が強く。その思いはワクワクしたものだった。
 予定の時間に到着したあすなは、
――どうせまだ来ていないんだろうな――
 と思い、待ち合わせの場所で立ちすくんでいた。
 あすなは知らなかったが、ちょうど同じくらいの時間におじさんも来ていたのだ。
 おじさんの方も、
――さすがにまだ来ていないだろうな――
 と思っていた。
 お互いにまだ来ていないと余裕をかましていたわけである。
 ただその思いが二人に余裕と油断を与えた。
 余裕の方はまだまだ約束の時間までかなりあるという気分的な余裕なのだが、それは感じて当然の感覚だったことだろう。しかし、油断の方はというと、余裕の裏返しであり、余裕を感じているという自覚があれば、油断はその裏で意識されることもなく、湧いて出るものだった。
 自覚がないということは、油断は独り歩きを始める。しかも油断として感じていることは、
「まだまだ時間がある」
 という余裕と同じ考えなのだ。
 つまりは、余裕と油断は表裏一体、片方が表に出ていれば片方は裏に隠れている。隠れているので自覚もないわけだが、すべてを余裕と感じてしまうと、そこに落とし穴があるというわけだ。
 表裏一体というのは、紙一重ということでもある。その時のあすなはそこまで意識していたわけではないが、少なくとも中学に入ってからはこの意識を持っているようだった。
「紙一重で相対することが表裏一体に存在する」
 この感覚を一言でいえば、どう表現すればいいのか。
 あすなは、
「長所と短所」
 だと感じるようになっていた。
「長所と短所は紙一重」
 という言葉を聞いたことがあったが、それは本当は言葉足らずで、その途中に入る言葉があり、再度表現するとすれば、
「長所と短所は表裏一体の紙一重」
 と言えるのではないかと思うようになった。
 それは中学に入ってからのことだったが、その時のあすなは、その片鱗を感じていたのだ。
 あすなは待ち合わせ時間までの十五分ほどを、結構長く感じていた。早く行った時の弊害というのは、待ち合わせの時間までが長すぎると感じることであった。
 それでも人を待たせるよりもいいと思い、早く行っている。だから他人が待ち合わせの時間ギリギリにどうしてくるのかということを考えてみると、何となく理屈が分かる気がした。
 それは、皆も自分と同じように待ち合わせまでの時間を長く感じているので、なるべくそんな時間を持ちたくないという思いが強いからではないかと思っていた。
 別に早く来て一番乗りになったからと言って誰かに褒められるわけでもない。要は遅れずにくればそれでいいことなのではないか。それをわざわざ早く行って、長い時間をじれったい思いをしながら待つなど、愚の骨頂のように思っているとすれば、それも仕方のないことだと思う。
 だが、あすなはそれでも一番乗りを目指していた。
 だからと言って、自分よりも先に誰かが来ていたからといって、
――しまった――
 という気分にはならない。
 別に競争しているわけではないという感覚があるからで、早く来ているのは、自分自身を納得させることができるからだった。
 それは、自分の中にある余裕が消えてしまうことを恐れているからだとあすなは思っていたが、実は余裕が消えることで、もう一つの感情も消えてしまうことを恐れていたのかも知れない。
 その感情が油断なのだが。あすなは油断という意識はない。しかし、余裕とは別に、何か似た感覚が自分の中にあることを自覚していた。それが油断であるなど夢にも思わないが、一つが消えると、もう一つも一緒に消えてしまうという感覚があすなには恐ろしかったのだ。
 一つのことで二つの感覚が消えてしまうなど、ひょっとすると、取り返しのつかない消え方をするのではないかと思うと恐ろしい。恐怖の正体はそこにあったのだ。
 待ち合わせの場所は、思っていたよりも人がたくさんいた。休みの日ということで、ちょうどこのくらいの時間から家族連れが活動を始める時間なのだろう。やけに家族連れが目立つ気がした。
 もちろん、家族連れ以外にも、友達同士やカップルの姿もいっぱい見ることができる。しかし、目につくのはどうしても家族連れ、普段から孤独よりも自由だと思っていた気持ちに反するようで自己否定をしたいという気持ちが強いくせに、家族連れを見つめている自分を見るのも悪くないと思い始めていた。
 それは客観的に自分を見ているからであり、それが余裕から来ているものだという自覚もある。複雑な感情を抱きつつもおじさんが早く現れないかと思っているあすなは、次第にキョロキョロしてくる自分を感じていた。
――おじさん、まだかな?
 と思っていると、現れるような気がしていた。
 しかし、思ったよりも駅にはたくさんの人がいて、次第に、
――おじさんが分からないかも知れない――
 という一抹の不安を感じている自分がいることに気付いた。
 おじさんの顔は覚えているつもりだった。
作品名:袋小路の残像 作家名:森本晃次