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袋小路の残像

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 しかも、その記憶は色褪せることはない。逆に見れば見るほど鮮明になっていく感覚だった。
 色褪せることはないと言ったが、実際に色がついているわけではない。それもこの記憶を夢だと思った証拠の一つであった。
「夢には色がない」
 と言っていた人がいたが、まさしくその通り、瞬時にして賛同してしまったあすなだった。
 まったく何も聞こえない目の前の遊園地の閑散とした風景の中で、耳に巻貝を当てた時に聞こえる潮騒の音のようなものが聞こえるのを感じた。風もないのに風の通り抜ける音だが。そのうちにその音も消えてくる。
 すると次に感じられたのは、柱時計の振り子がもたらす音だった。
――なるほど、小腹が空いてくる気がするわ――
 と、今聞いたお姉さんの話を思い出し、自分もコーヒーとクッキーが目の前に置かれている妄想に駆られた。
 クッキーは皿に乗せられているが、その皿には白い紙が添えられている。その横にフォークが置かれているが、ビジュアルとして配置的に最高のフォームを示しているように感じられた。
――これこそ芸術っていうのかしら?
 と感じた。
 あすなは、今目の前にあるものが残像であることを感じると、先ほどの三段論法を思い浮かべていた。
 三段論法は、時計の刻む音と一緒に時計の表示板を写し出している。長針と短針が時を刻んでいるが、次第にその刻む感覚が早くなってくるのを感じる。そのうちに柱時計が歪に見えてきて。小学生の頃に見たアニメの中でのタイムマシンの一場面を思い出した。
「歪な形の時計版がいくつも雲のようなトンネルの中に張り付いていて、その仲をタイムマシンに扮したアイテムが走るように通り抜けていく」
 そんな光景であった。
「タイムマシンなんて、理論的に無理なものだ」
 という学者がいたが、あすなにもその思いは分かった。
 あすなは、理論的な意味よりも、時間的な意味の方を重要視している。
 二十世紀というと、科学の発展はめまぐるしいくらいのものがあった。不可能と思えるようなことをどんどん実現し、不可能が可能になっていった時代である。
 しかし、タイムマシンやロボットの発想は、科学の発展当初からあった。それなのに、今になっても、SFなどに出てくる実際のタイムマシンやロボットは存在しえないではないか。
 タイムマシンに至っては、そのきっかけすらないので、無理もないが、ロボットに関してはAIなどの電子頭脳を搭載したものは存在する。しかし、実際に人間の命令をきく、
「人型ロボット」
 に関しては開発される気配はない。
 あすなは、SF小説を読むのが好きだったので、
「ロボット工学三原則」
 の存在を知っていた。
 今から半世紀以上も前に提唱された三原則がネックになって、ロボット開発はこれを解決しなければ不可能であった。
 この理論は三すくみのようなもので、負のスパイラルを伴っている。つまりは、
「抜けることのできない袋小路」
 を形成しているのであって、その袋小路のせいで、永遠にロボットが開発されることはないと言わしめているかのように思えた。
――ロボット工学三原則のような理論は、まだ発見されていないだけで、他にもたくさんあるのかも知れない――
 ロボット工学三原則は、ロボット開発の前に提唱されたものだ。
 しかし、今後出てくるかも知れない堂々巡りを繰り返す理論は、すでに出来上がっているものに対してのものであろう。
 それがさらなるその部門での発展を妨げるだけのものなのか、それともその部門を完全否定するものなのかは分からない。
 しかし、それで一つでも完全否定されて、この世からタブーとされることで消えていくのもがどれだけあるというのだろう。
 本当は過去にもたくさんあって。消えてしまった瞬間に、そんなものが存在したということすら、世の中の全員に植え付けられる力が存在しているのかも知れない。
 それを思うと実に恐ろしい。目の前にあってもそれとは気づかない状態だということになる。
「暗黒星」
 目の前にあっても、自ら光を発することもなく、さらにはまわりの光を反射して光ることのない、光を吸収してしまう存在の星、それを創造した科学者がいると言われるが、そのことをあすなは思い出していた。
 あすなは、柱時計の存在も、その暗黒星のようなものではないかと思えた。あれだけ存在価値を満たしていたのに、なくなっても部屋は何ら変わりがない。変わりがあるとすれば、あすなの心の中だけのことだ。
 影響範囲は極々狭い範囲でしか力を発揮しないが、その影響力は抜群のものがある。これまではそれはあくまでも自分だけのものだと思っていたのに、お姉さんと共有できるなどまるで夢のような気分だった。
 人の顔を覚えられないあすなの意識は、このあたりにも影響しているのではないかと思えた。
 人の顔を覚えるのは、本当はかなりの労力と専門的な力を有する。それを他の人は本能として持っているが、あすなにはそれがない。本能の一つが欠如しているということだろう。
 しかしその代わりに他の潜在意識が影響することで他の人に感じることのできないものを感じることができる。それこそが、あすなの持ち合わせた感性ということができるのではないだろうか。
 あすなはさらに潜在意識を感じた。その光景の続きを思い出したからだ。忘れていたわけではないと思っているが、どうして今まで思い出すことがなかったのか、少し考えてみた。
――見たこと自体を虚空だと思っていたからなのかも知れないわ――
 という結論を思い描いたが、それが正解なのかどうか分からない。
 意識していたはずなのに、その光景を見ると、まるで初めて見た時のような衝撃を与えられたからだ。
「ピエロ」
 そう、あの時に次に見たのはピエロだった。広場の閑散とした雰囲気というよりも、強烈な印象を受けたのはピエロの出現があったからだ。
「なぜそのことを忘れてしまっていたのか?」
 あすなはいろいろ考えてみたが、何かの力が働いているように思えてならなかった。
 そして感じたのは、その力がなぜあすなにピエロを見たということを思い出されては困るのか、それについても考えてみた。
「ピエロの素顔を見てしまったからではないだろうか?」
 とあすなは思ったが、その素顔を思い出すことができないように自分の中で自己暗示に掛けていたのかも知れない。
 自己暗示というのは、見たことの強烈なイメージを否定する気持ちからであろうが、それが誰だったのか、その顔を今では思い出すことができる。
「あれはおじさんだったんだ」
 あすなは、ピエロの顔を自分だと思っていた。
 夢の中で時々出てくる一番怖い存在が、
「もう一人の自分」
 だったからだ。
 もう一人の自分ではなく、そこにいたのがおじさんだったという事実は、あすなに堂々巡りを繰り返させた
 その堂々巡りを思い起こさせる原因になったのが、柱時計の長針と短針である。
「長針を動かせば短針も一緒に動く。だから分針としての長針が重要なんだ」
 と、さっきお姉さんの言葉から知った。
 あすなとおじさん、どっちが長針で短針なのだろう。それを動かしている手があるとすれば、それはお姉さんに違いない。
作品名:袋小路の残像 作家名:森本晃次