袋小路の残像
「夢の中で見た人の残像が隔絶した結界として存在しているため、覚えようとすればするほど、覚えることができないのだ」
と感じるようになっていた。
そして、そのキーになるポイントは、残像であった。自分の頭の中に残っている残像が少しでもブレてしまうと、記憶は人の顔を拒否してしまう。そして、残像が曖昧なことで、その人だと思っても、どうしても自信を持つことができない。
夢が都合のいいものであるならば、記憶にも同じことが言えるのではないだろうか。覚えていたい記憶が、必ずしも覚えられる記憶とは限らない。記憶力とは人それぞれで個人差があるのだろうが、人の顔を覚えるという行為に関しては、さほどの違いはないと思える。
なぜなら、被写体があって、それを覚えるというごく単純な構造になっているからである。
お姉さんはあすなの部屋に入って、あすなの部屋が綺麗なことに何か違和感を感じていることに気付いていなかった。
「綺麗なお部屋」
と言われたことを、単純に嬉しく思い、
――これを言われたいがために、掃除をするようになったんだわ――
と感じた。
今まであすなは人を自分の部屋に入れたことはなかった。部屋にはカギはついているので、親でも中に入ることはできない。あすなが自分から招き入れることもなかったし、親も入ってこようとはしなかった。それはあすなが自分の部屋を綺麗にするようになったからで、母親はそれを素直に喜んだ。
「女性として、当たり前のこと」
として、母親は思っていたが、あすなの感覚は少し違った。
「部屋を綺麗にできる人って、そんなにたくさんはいないんだ」
という感覚である。
人から言われて仕方なく掃除する人は、
「部屋を綺麗にしている」
とは言えないのだと思ったからである。
「あすなちゃんのお部屋を見ていると、あの人を思い出すわ」
あの人というのは、当然おじさんのことである。
「どうして?」
とあすなが聞くと、
「あの人は掃除が大嫌いだったの。でも私と結婚してからは、気が付けば掃除をするようになったわ。何も言わなくてもするようにね。だからあの人の本質は、掃除好きだったのではないかって思うのよ」
と、お姉さんは言った。
あすなは、自分が掃除好きだなどと今まで思ったことはなかった。今回掃除をするようになったのも、掃除が好きだからではなく、遊園地の広場を夢に見たからだった。何かの大きなインパクトがなければ掃除をするようになることはなかったわけだから、好きだったということは絶対にないと思っている。
しかも、掃除をしなかったのは、
「モノを捨ててしまうことが怖かったからだ」
ということである。
怖いというのは、本当に必要なものを捨ててしまうことであり、つまりは、製紙整頓ができないということを裏付けている。何が必要で何が必要でないかということをすぐに理解できないという思いと、それをどれほど繰り返さなければいけないのかという面倒を考えると、掃除をすることのメリットが浮かんでこないからだった。
「後で後悔するよりも、汚いくらいの方がよほどいい」
と思った。
整理できないからと言って、困ることはないと思っていたが、果たしてそうだろうか。実際に必要な時に、すぐに見つけることのできない環境があるのは、本当にいいことなのだろうか。
何かのきっかけを欲していたのかも知れない。そういう意味であの時に見た夢はタイムリーで、都合がいい夢だったに違いない。
――夢って、案外自分の都合に合わせて見ることができるものなのかも知れないわ――
と感じるようになっていた。
「あの人が言っていたのよ」
とお姉さんが呟いた。
「何て?」
「あすなちゃんは、ご両親の確執から離れて、モノを捨てられるようになるってね。それは自分に似たところがあるからだっていうのよ。そしてね、あの人はそのことを一緒に行った遊園地で感じたというの。あすなちゃんがご両親の確執から離れたのって、もっとかなり後のことよね?」
「ええ、遊園地に行ったのは、小学校の低学年のことだったし、私が両親を憎まなくなったのは、中学に入ってからだと思うので、その間に何年もあったわ。それなのに、あの日一日一緒にいただけでそんなことまで分かってしまうなんて、おじさんってすごい人だったんだ」
とあすなは、素直に感心した。
おじさんのその言葉は今まであすなが自分の中で抱えていたモヤモヤを解消してくれるものであったことに違いはないが、すべてのモヤモヤが解消されたわけではない。あすなが感じていることで一番の疑問は解消されていない。これを解消してくれる人はきっと現れないだろう。それは自分以外にはいないとあすなは思っているからだった。
――ゴミをすべて拾って捨てたはずなのに、またゴミが残っているという、堂々巡りだ……
あすなはそう思いながら、目の前にいるお姉さんを見つめた。
その表情は怖いくらいの目力だったに違いないが、お姉さんの表情は終始ニコニコしている。それは余裕から来るものなのか、あすなには分からなかった。
時計の針
「お姉さんは、物覚えのいい方なんですか?」
あすなは、唐突に聞いてみた。
「そうね。あまりいい方だとは言えないかも知れないわ」
という。
「じゃあ、人の顔を覚えるのは?」
「これはまったくダメ。初対面であれば、いくら一緒にいる時間が長くても、その人の顔を覚えることができたためしはないわ。それが私にとって、一つの悩みでもあるのよ」
と言ってくれた。
「そうなんだ。実は私もそうなの。人の顔を覚えようとしても、その人と離れてから少しすれば、記憶の中から、その人の顔の残像が消えているのよ。人の顔を覚えられないのって相手に失礼だし、今後いろいろ都合の悪いことになりそうで、怖いことだって思うんですよ」
「そうよね。仕事上、相手の顔を忘れてしまっているのって失礼に当たることだし、難しいことだと思うわ。でも、必要以上に怖がっていたり意識してしまったりすると、却ってよくないんじゃないかって思うの」
「どうしてですか?」
「人の顔を最初は覚えられなくても、何度か会ううちにいつの間にか覚えているものでしょう? そればかりを気にしていると、他の肝心なことが疎かになってしまって、結局相手に対して失礼に当たるんじゃないかって思うのよ」
「そんなものなんですかね?」
「それにね。気にしすぎると、それがトラウマになってしまって、そのうちに覚えられるようになることだって下手をすれば、難しくなるかも知れない。それを思うと私は必要以上に不安に感じることは逆効果になるんじゃないかって思っているの。『負のスパイラル』という言葉だってあるでしょう?」
「ええ、確かにそうかも知れませんね」
あすなは、お姉さんの言葉を素直に受け取って、自分の中で咀嚼してみた。
「ところでね。さっきあすなちゃんは、残像という言葉を口にしたでしょう?」
「ええ」
「残像というのはすぐに忘れてしまうから、残像として残しておきたいと思うから、人の顔を残像という表現で話してくれたんだって思うのね」
「ええ」