袋小路の残像
「おじさん、結婚するらしいわよ」
と母親がいつにもなく興奮したようにあすなに言った。
「そう」
と冷淡に答えたあすなだったが、おじさんが結婚するというのは、あすなにとっても意外な気がした。
「あの人も、そろそろ年貢の納め時って思ったのかも知れないわね」
あすながそのセリフを聞いて、
――ということは、おじさんは結婚しようと思うと、いくらでも相手はいたということなのかしらね――
と思った。
これも小学生の考えることとしてはかなりませた考えだったが、あすなには、稀に大人顔負けの冷静な考えを持つことがあり、この頃にはそれをまわりの人も意識するようになっていたのだ。
おじさんが結婚した相手は、本当に平凡な女性で、おじさんとは少し歳の差があるということだった。
おじさんはすでに三十歳後半だったが、奥さんはまだ二十代半ばくらい、小学生のあすなが聞いても、
――結構な歳の差だわ――
と感じるほどだった。
そういう意味で、両親は心配していた。
「大丈夫なのかしらね?」
と母親がいうと、
「そうだな、真面目なところがあるから、若い嫁さんについていけるかどうかが気になるところだ」
と父親が言った。
――結婚って、男性が主導権を握るものなんじゃないの?
と考えたあすなは、奥さんについていけるかどうかがおじさんに掛かっているなどという言い方は、まったくの逆ではないかと思った。
だが、あすなは二年前におじさんに遊園地に連れて行ったもらったあの時のことを思い出して、
――おじさんなら、お母さんの言うことも分かる気がするわ――
と感じた。
その時、思い出した遊園地でのおじさんだったが、その顔を思い出すことはできなかった。明らかにのっぺらぼうのようなおじさんが意識の中にいたのだが、だからと言って怖いとか気持ち悪いとかいう発想はなかった。
それでも今考えれば、お似合いの夫婦だったようで、おじさんはしっかりと奥さんをリードし、奥さんも自分から表に出ることのない内助の功をうまく発揮していたようだ。
あすなが見てもそれは感じたし、誰に聞いてもあの二人はおしどり夫婦だという話だった。
そんな奥さんを残して先に旅立ってしまったおじさんは、どんなに無念だっただろうかとあすなは感じていた。
おじさんの奥さんが、その日訪ねてきた。おじさんと遊園地に行った時の夢を見たその日だったので、あすなは何か運命的なものを感じたが、その訪問は突然のものだったわけではなく、あすなにも事前に知らされていた。
あすなは奥さんと会うのは何度目だったか、それほど面識がある方ではなかった。
その日は学校だったので、授業中も奥さんが訪ねてくることが気になって、それほど勉強が身に入ったわけではない。だがそれは嫌だから気になったというわけではなく、久しぶりの我が家に対しての来訪に、ワクワクしていたというのが本音であろう。
あすなは、授業が終わるとすぐに帰宅した。もちろん、来訪者を迎えるための心の準備を整えながらであったが、最近にしてはこれほど心が躍った日がないと言ってもいいほど、楽しみだった。
家に帰ると、さっそく奥さんはやってきていた。年齢もまだ三十歳にはなっておらず、叔母さんというには若すぎる。自分の姉としては年齢が離れているのだろうが、それでもおばさんというよりも、お姉さんと言った方がいいので、あすなは敢えてお姉さんと呼ぶようにしていた。
「いらっしゃい、お姉さん。お久しぶりです」
というと、座っていたお姉さんが立ち上がり、
「お邪魔しています。お久しぶりね」
と言って笑顔を見せてくれた。
あしなは緊張からか笑顔がこわばっていたのだが、さすが年上のお姉さん、その顔に緊張はなく、笑顔もぎこちなさはなかった。
母親は、奥でお茶の用意をしていたようなので、ちょうど今来たばかりなのだろうということは察しがついた。
「お茶菓子いただいたのよ。あすなも一緒にいただきなさい」
と母親はそう言って、あすなにも促した。
おじさんと遊園地に行った頃に比べて、両親ともに、かなり丸くなったものだった。母親は家にいることが多くなり、ご近所の出事にも参加するようになった。いつからこんな風に変わったのか分からないが、きっと何かの歯車がピッタリ嵌ったのではないかと感じたあすなだった。
小学生の低学年から、高校二年生までの約六年間ほど、あすなにとっては、結構いろいろなことがあったと自分では思っているが、それ以上にまわりでは起伏の激しい出来事が起こっていて、それが両親を丸くしたのだろうと思った。だが、あすなにはそれがどのような経緯でどのように嵌ったのか、想像もつかない。ただ、最悪だと思っていた家庭は、落ちるところまで落ちていたわけであって、後は上に向かうしかなかったとみることもできる。
もちろん、かなりの楽天的な考えだが、そう考えることが一番しっくりといくのだ。
あすなにも、子供の頃に比べれば変わったことが結構あった。その中で一番変わったのではないかと思えるのは、自分に自信を持てるようになったということであろうか。
あれは中学三年生の頃だった。どちらかというと思春期を迎えるのに晩生だったあすなだったので、異性への意識が生まれてきたのも少し遅かった。
まわりの女の子は小学生の頃から初潮を迎えていて、身体にもれっきとした変化が訪れていた。
しかし、あすなには小学生を卒業しても初潮はなく、母親も心配するほどだったが、中学に入学してすぐに初潮を迎えると、それに平行するかのように、身体の発育も一気に進んでいた。
男子に比べれば、女子の方が成長は早いという。ませた女の子もまわりには結構いたので、あすなには自分が置いて行かれているという意識から、焦りのようなものがあったが、余計な意識をなるべく持たないようにしようとしていた。
男子の中にもまだ体が成長していなくても、異性への興味を持っている人もいたようで、あすなにはその気持ちがよく分からなかった。
あすなは、自分が大人に近づいたという明らかな体の変調がなければ、異性への意識はないと思っていた。実際にそうだったので、その意識は実証されたと思っていた。
だが、あすなのことを見る目に、男子のいやらしさを感じるようになったのは、まだ自分が大人になったという感覚に入る前のことだった。
――異性を意識しているからなのかしら?
と思ったが、単純に気持ち悪いものを気持ち悪いと思うという、反射的な感情であると思うと、自分の考えにそぐわない男子がいても不思議ではないと言えるのではないかと思うようになっていた。
あすなが初潮を迎えた時、すぐにお母さんに報告した。
「それはよかったわね。今夜はお赤飯にしましょう」
と言って喜んでいた。
あすなもそれを聞いて嬉しく思ったのだが、それは自分が初潮を迎え、大人になりかかっているということよりも、それまで見たことのないようなあすなのために喜んでくれている母親の姿を見て、素直に感動したからだった。
「ありがとう、お母さん」
あすなも随分と素直になったものだ。
あすなは、初潮を迎えて少し下頃から、異性への視線が少しずつ変わってきたのを感じた。