袋小路の残像
「そうだな」
と言って、父親も賛同した。
人の話題を肴に話をしていたはずなのに、それを自分たちに当て嵌めてしまったことが、運の尽きだったのかも知れない。
お互いに気まずい雰囲気になったが、結局その日は二人とも口を利くこともなく、その日は終わった。
だが、翌日は何事もなかったかのように朝を迎えた。
「おはよう」
「おはようございます」
という言葉は普段と変わりのないもので、まるで二人とも昨日のわだかまりは消えているかのようだった。
――これが大人なのかしらね――
とあすなは感心したが、完全に信用したわけではなかった。
どこかにわだかまりが残っているようで、対応は大人であっても、感情は大人なのか子供なのか分からない。そもそも感情に大人も子供もあるというのか、あすなはいろいろと考えていた。
喫茶店でおじさんの素顔を見た気がした。遊園地では誰もいない無駄な広さにおじさんは普段の自分を隠していたかのように見えたが、自分の隠れ家である喫茶店に赴いてからは、おじさんは自分を表に出しているようだった。
―ーでもこんなに楽しそうなおじさんの顔、見たことがないわ――
とあすなは感じた。
次のイタリアンレストランでも、素顔そのままの状態で、少し緊張があるかのように思えたその顔は、あすなの気のせいだったのだろうか?
いや、そんなことはない。あすなが感じた緊張した顔は、きっと前に連れてきた彼女を思い出したからなのかも知れない。二人がなぜ、どのような経緯で別れることになったのか知る由もないあすなは、おじさんの顔をじっと見つめているしかなかった。
――おじさんには、何か予感めいたことがあったのだろうか?
あすなは、直感でそう感じた。
この日のあすなは、まるで大人になったかのように直感が働き、そのほとんどが的中していたと言ってもいい。
「直観を感じるようになるのも、それが間違いがないと思えるようになるのも、それは大人になった証拠」
とあすなは信じていた。
その思いに拍車をかけたのが、この日だった。
あすなはレストランに入ってから少しして、それまでのおじさんとはまったく別人になってしまったかのような錯覚を覚えるほどになっていた。その理由としては、
「何を言ってもまったくの無反応で、まるで他人のように思える」
という感覚だった。
ここまでくれば直感でなくても、おじさんの様子がおかしいことは分かるのだろうが、あすなが感じた直感は、もっと前からのことだった。
緊張だと思っていたその雰囲気は、おじさんが一点に集中して見ているからだった。そこはおじさんから見て正面の席で、そこには先ほどから一組の男女が楽しそうに食事をしているのが見えていた。
女性の方は結構派手で、最初は、
「以前、おじさんが連れてきたのもあんな感じの女性だったわ」
と思ったが、おじさんの視線と、その表情から、どうやらおじさんがその女性を知っているように思えてきた。
「まさか」
あすなは、そう思ってその女性を見たが、見たことがあるような気がするのだが、誰だか思い出せない。
その状況から考えれば、その女性がおじさんの別れた以前付き合っていた女性であるということは一目瞭然なのだが、あすなにはそれを自分に納得させるだけの材料が弱かったのだ。
しかし、あすながそう思ってその女性を見ていると、その向こうから当たる光が、やたらと気になってきた。
その光は完全に逆光になっていて、相手の顔を隠すには十分だった。
そんなわざとみたいな都合のいい状態が、それほど簡単にできてしまうなど、想像もできないことだった。
レストランでの雰囲気は一変してしまった。流れているBGMも最初は高貴なイメージに感じられたものが、次第に交響曲でも、何か妖気を帯びた雰囲気に感じられた。
切羽詰まったような空気が息苦しさを誘い、あすなは自分が呼吸困難に陥りかけていることを感じた。
おじさんはあくまでも緊張しているのだが、息苦しさは感じさせない。
――まるでおじさんが感じるはずの息苦しさを、私が感じさせられているような感じがするわ――
と、自分の置かれた環境に理不尽さを感じていた。
あすなはおじさんの様子に変化を感じ始めてから、時間が経つのが遅くなった気がした。気のせいか、まわりの人の動きもぎくしゃくして感じられ、早いタイミングと遅いタイミングが交互にやってきているように思えてならなかったのだ。
喉の奥はカラカラに乾いていて、水を飲みたいのだが、喉を通る気がしなかった。手はコップを掴むのだが、口元に手がいかない。何かに腕を抑えられているようで、空気が重たいのか、まるで水の中でもがいているかのようだった。
そして、その時間の空気は重たさからも感じられることだが、かなりの湿気を帯びているかのようだった。無駄な汗が滲み出ているのを感じ、額からも脇からも、そして本来なら掻くはずのない掌からも汗が出ているのを感じ、掌から出ている汗を感じたせいもあってか、どこまでが本当のことなのか、次第に疑問に感じるようになっていた。
そんな不思議な時間がどれほど続いたというのか、次第に我に返ってくると、目の前には注文した料理がすべて運ばれてきていた。
「さあ、いっぱい食べなさい」
とおじさんに促されて、目の前にある料理に今度は集中した。
さっきまでの自分がどこに行ってしまったのかと思ったが、食べてみるとおいしく、次第にさっきまでの自分を忘れていく感覚になっていた。
気が付けば、さっきまでいたカップルはいなくなっていた。テーブルの上に料理は残っておらず、そこに誰かがいたという気配はその時には存在しなかった。
――幻を見たのかしら?
と思ったが、あすなには何とも答えようがなかった。
最近、時々だが、
「幻を見た」
と感じることがあったような気がした。
そこにいた人を認識していたはずなのに、いたはずのその場所には人がいたという痕跡も気配も残っていない。幻というよりも、夢を見たとその時は感じていたが、おじさんと立ち寄ったレストランで感じたものは夢のようには思えなかった。
「どこが違うんだ?」
と聞かれれば、ハッキリとどこがと答えることはできないが、一番の違いは、今回のようにすぐに違和感の原因を考えたのかどうかということだった。
最近見ていた幻に関しては、すぐには夢か幻かという感覚にはならなかった。まず最初に、その真意を疑ってかかるからだった。疑うことによって何段階か考えが先に進んでしまって、そこに時間の流れも加味されて、実際に夢か幻かということを考えようとした時、認識した感覚を思い出すと、かなり以前に感じたことのように思うようになり、夢を見ていたという感覚が、その間に失せてしまっているような気がした。
つまりは、時間が経つにつれて、夢であるという感覚の方が先に薄れていくということなのだろう。残った幻かどうかということに意識は残ってしまい、自分の中で幻一択になってしまっていた。
あすなは、今回初めて夢と幻の二択を選択できる気がした。だが、実際にはやはり幻を見たという方がしっくりくるような気がして、夢という感覚は持つこと自体難しいと思っている。