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袋小路の残像

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 自動改札を通ってプラットホームに出ると、電車を待っている客はいなかった。この駅はほとんどが遊園地利用客なので、それも無理もないことだ。つまりはこの駅は遊園地のための駅であり、遊園地ができたことで、作られた駅だという話も聞いたことがあった。
 待っている人のいない駅のホーム。こんな光景を今まであすなは見たことがなかった気がする。
 電車を利用するのは休日のみ。当然客がほとんどいない光景など見たことがなかった。
 駅で電車を待っている時、まわりの大人が皆大きく見えて、子供の自分たちなど意識する人はいないだろうと思っていた。
 子供連れも少なくはなく、大声で叫んだり、泣いたりしている子供もいた。子供目線から見ていると、見ていて情けなさが感じられた。
――何をそんなに泣いているんだろう?
 という感情である。
 何か自分の思いを達することができなかったからごねて泣いていることは分かっていたが、見ていてあまりいいものではない。
――私はあんなことはしない――
 と確固たる思いを頭の中に浮かべていたが、それと同時に、どうしてごねているのか、その理由を知りたいという気持ちもあった。
 しょせんは大したことではないという思いはある。ほしいものを買ってもらえないことで泣いてすがっているのだろうか、それとも行きたいところが親の連れて行こうとしているところと違っているのだろうか。どちらにしても子供のわがままだと思った。
 だが、ごねている子供を見ていると、そのうちに羨ましい気分になることもあった。
 自分は決してごねるようなことはしない。それは性格的にできないと思っていたからだが、それは最初に、
――私は、決してそんなごねたりなんかしない――
 という思いを強く持ったからだった。
 最初に強く持ってしまうと、それに抗うための気持ちを持つことは、それに伴うだけの強い意志が必要だと思うのだ。しかも、最初に感じた思いよりも強いものではないと、覆すことなどできるはずもないからだ。
 あすなは、自分が涙もろいということを自覚していた。何でもない時に泣きたくなるのだ。
「大人も私くらいになると、涙もろくなってね」
 と、一度おばさんの奥さんがそう言っているのを聞いたことがあった。
 そのおばさんというのは、あすなのクラスメイトの母親だったので、自分の母親と同年代だろう。
 年齢的には三十歳代後半から四十歳くらいなのだろうが、あすなには結構なおばさんに見える。母親よりも歳を取って感じられるのは、少し太っているからなのかも知れないが、たまにそのおばさんが、
「自分の母親だったらよかったのに」
 と感じることがあったが、間違っても口に出すことはなかった。
 その理由は、時々自分と気が合うのではないかと思うことがあるからだ。
 おばさんが何気なく口にした言葉が、忘れられなくなることがあるからだ。先ほど思い出した、
「大人も私くらいになると、涙もろくなってね」
 という言葉もその一つだが、とにかくおばさんは時々あすなの気持ちをハッとさせることがあるのだ。
 言葉に力があるという意識はあすなにもあったが。忘れられない言葉を何回聞くかということにそのバロメーターがあるのかも知れない。
 そのくせ、すぐに忘れてしまったり、どうしても覚えられないことがたくさんあるのも事実で、この二つのギャップがあすなの成長する上での障害になりはしないだろうか。
 小学生のあすなにそんな自覚などあるはずもなく、そのおばさんを意識することで、両親を余計に嫌いになってしまうことが、自分を好きになることができない理由の一つではないかと思うあすなだった。
 閑散とした駅のホームに立っていると思い出してしまった近所のおばさんだったが、電車が見えてくると、すぐに我に返ってしまった。
 さっきまであれだけ無駄に広いと思っていた駅のホームが急に狭く感じられ、人がホームに待っているわけではないのに、止まる電車を見ると、寂しさが感じられた。
 この寂しさはさっきまでいた遊園地の広場での、
「無駄なだだっ広さ」
 を感じた時の情けなさとは少し違っていた。
 微妙な違いなのだろうが、きっと他の人が同じ感覚になった時、同じ寂しさだと感じる人もいるのではないかと思うほどの微妙さであった。
 あすなは滑り込んできた電車に乗り込むと、やはり閑散としている車内を見ていると、差し込んでくる西日がまるで何かの幻を写し出すのではないかという錯覚を覚えた。
 閑散とした電車内というのは、あすなの感覚では夜間の電車内だった。遊園地に来るまでも結構閑散としていたはずだったが、それを感じさせなかった理由は、遊園地へ行けるという楽しみが待っているという感覚と、閑散とした中で、喧騒とした雰囲気もあったからではないかと思っている。帰りに乗った電車の閑散さの中に喧騒とした雰囲気は存在せず、ただ寂しさだけが漂っているだけだった。
 だが、
「無駄なだだっ広さ」
 という雰囲気は感じられなかった。
 だだっ広さすら感じなかったからで、だだっ広さを感じなければ、当然修飾子である「無駄な」という言葉もそこには存在しない。
 むしろ狭さすら感じさせる。普段乗る適当に混んでいる状態の電車の中よりも狭く感じられるのだ。
 電車の扉は片方で三つあり、それぞれその間に対面式の座席が作られていた。普段よりもその座席が狭く感じられることが、車両一両が狭いという感覚にさせられるのだった。
 電車の車両を見ていたおじさんも、
「何となく、狭く感じるのはおじさんの気のせいかな?」
 と言って笑っていた。
 あすなは同じことを感じているおじさんにドキッとして顔を見上げたが、ただ笑っているだけのおじさんを見て、
――これ以上、触れない方がいいかな?
 と咄嗟に感じたのか、何も言わなかった。
 おじさんは笑顔を見せたがその笑顔であすなの方を向くことはなかった。あくまでも正面を見ながら言っただけだった。何か虚空を見つめているというような様子もなく、ただ前を見ているだけだった。
 二人はここで黙り込んだ。
 席に座る時も、おじさんはあすなを促すこともなく、適当に座り、あすなも後ろをついていくようにしながら、その隣に当然のごとく腰を下ろしただけだった。
 腰を下ろして正面を向くと、今度はさっきまで感じていた狭さとは正反対に、向こうが遠く感じられた。それは目の前の窓が小さく感じられたからだ。
 車窓から覗く景色は、せわしなく駆け抜けていくように見えた。等間隔で立っている列車用の電柱は、垂直に走り抜けていくというよりも、進行方向から吹いてきた風になぎ倒されるように斜めに進んでいくような錯覚を覚えた。
――何なのかしら? この感覚って――
 あすなは目の錯覚に戸惑っていた。
 車窓の飛び越えるような風景に錯覚を覚えるのは、これが初めてではなかった。今までにも何度か錯覚を覚えたのを思い出していたが、そのほとんどは、扉の横にもたれるように立っていた時だった。
 あすなは反対路線のレールが見えるところに立つことが多かった。最初はどちらに立つなどという意識はなかったのだが、いつの間にかレールの見える扉の方に立つことが多くなってきた。
作品名:袋小路の残像 作家名:森本晃次