袋小路の残像
ただ、夢だったとしてはリアルすぎるのと、おじさんが一緒にいることとを考えれば、簡単に夢だったとして片づけられない気がして仕方がなかった。
だが、あすなはすぐに気にするのをやめた。あすなが目の前にいたピエロの存在を否定さえすれば、何事もなかったことになるのだ。下手に騒ぎ立てて余計な思いを抱かせるのは、あすなの本意ではなかったからだ。
目の前にいたピエロを夢だったとして片づけることはできない。しかも、ピエロを見たという事実を時間とともに、簡単に消えて行っているのが分かったことで、何か自分の中での矛盾が芽生えてしまったことを悟っていた。
その時のあすなには分からなかったが、この矛盾が一層、事実を忘却の彼方に追いやることを推奨しているかのようだった。人間が逃げようという感覚に陥る時の中には、この矛盾を感じた時に生まれるのではないかと、あすなはかなり後になって気付くのだが、その時はまったくその気配もなかったのだ。
あすなはおじさんがピエロのことを覚えていないのか、それとも忘れてしまったのか、本当に最初から意識があったわけではないのか、さらには、夢だと思っていたのか、いろいろ考えられることを頭に思い浮かべてみた。一つ一つを消去法で考えたが、考えはまとまらない。そのうちに、あすなの方がピエロへの意識が低下していることに気が付いたというわけだった。
あすなはピエロの記憶が頭の中から消えていくのを、徐々に同じペースで消えていくものだと思っていたが、どうも違っているようだった。
それはまるで階段のように、ある一定の段階に来るまでは、一気に薄れていき、ある段階にくれば、一旦薄れが消えてしまう。しかし、また少ししてから意識が薄れてくるという具合だった。
今までに感じたことのない感覚にあすなは戸惑っていた。
しかし、あすなはまだ小学生の低学年である。まだ十歳前後なので、これから大人になり、いろいろな経験をするわけなので、感じたことのない感覚を味わったことで戸惑うというのは、少し違う気がする。
――やはり、これが初めてではないという感覚があるからなのかしら?
という思いが残ってしまっていた。
あすなはこの思いを自分だけではなく、おじさんもしているのではないかと思っていた。そこに根拠はなかったが、おじさんの顔を下から眺めていて、どこか上の空になったおじさんの顔がすぐに思い浮かぶからだった。
おじさんという人は、あすなが思っているよりも結構気さくな人だということだった。会社でも営業をしているらしく、成績もいいと聞いていた。そんなおじさんは社交的で、誰とでも話を合わせることができるという話だったので、だからこそ、両親はおじさんにあすなを預けたのだろう。
おじさんの本音は分からないが、両親から頼まれると嫌とは言えないところがあって、どうやら恩義を感じているところがあるようなのだが、子供のあすなに分かるはずもなかった。
おじさんと両親はあまり似ていない。社交的でしかも几帳面なところがあるおじさんに比べて、あまり社交的ではないが、几帳面でもない両親とはどうして話が合うのか、あすなには疑問だった。
だが、両親は社交的ではなく、しかも几帳面でもないにも関わらず、会社の仕事を無難にこなしているのか、成績はいいようで、父親などは、すでに会社で課長にまで出世していて、同期の中でも出世頭だという話を聞いたことがあったが、あすなはすぐには信じられない気がした。
――本当にお父さんのことなんだろうか?
と感じたほどだった。
あすなは、確かにピエロの記憶が残っていたはずだった。しかし、おじさんに簡単にピエロの存在を否定されて、
――私の方がおかしいのではないか?
と感じるようになった。
元々あすなは、自分に自信が持てない方だった。人に何かを言われると自分の意志が急に揺らいでしまう。最初はそれを、
――まだ子供だから――
と思っていた。
子供であれば許される感情であり、無理もないことである。それはまわりの人が自分よりも優れているという感覚から来ている。決して自分が悪いわけではないという感覚だ。
それは、絶えず誰かと比較しているからで、比較対象がなければ、自己評価もできないと思っている。この感情はあすなに限らず誰もが持っているものなのであろうが、必要以上に持ちすぎるとそれがトラウマになってしまうということを、その時のあすなには分かっていなかった。
その日、遊園地は相変わらず人が増えることはなく、昼前くらいになると、がらんとした遊園地内の雰囲気にも慣れてきたのか、それほど違和感を感じることはなくなっていた。
閑散とはしていたが、無駄にだだっ広いという感覚は消えていた。この「無駄」という感覚が消えたことが、その後の慣れを生んだのかも知れない。そう思わせたのは、
「ピエロの存在だったのではないか」
と思わせたが、この発想は突飛すぎて、信憑性のあるものではなかった。
あすなとおじさんが遊園地を出たのは、午後三時くらいだった。
「もうそろそろいいかな?」
とあすなが言い始めたからだった。
おじさんも、
「そうだね、楽しめたかい?」
と言ってくれたが、
「はい」
としか答えることができなかった。
遊園地で何が楽しいかということを、今日ほど疑問に感じたことはなかった。
日曜日のように人でごった返して、アトラクションに並ぶのに、三十分以上というのも普通だという時でも、やっと乗れたアトラクションを十分に楽しむことができた。
今日も前半はアトラクションを楽しんでいたが、それは普段と違って自分一人で占有できるという独占欲を満たしてくれることが新鮮で嬉しかったからだ。
だが途中から次第に寂しさがこみあげてきた。その寂しさがどこから来るのか分からなかったが、いつもは嫌だと思っていたざわつきがないことが物足りないと思えていることが分かった。
それが虚しさという言葉と結びついてくるということを分かるはずもなく、もし虚しさという言葉の意味を分かっているとしても、物足りなさがすぐに虚しさに結び付くなどという発想は浮かばなかっただろう。
つまり、虚しさに辿り着くには段階を踏む必要があるということだ。少なくとも二段階は必要であり、二段階を満たすには、最初の段階の方がハードルが高いようだった。
あすなとおじさんは遊園地を出てから、駅に向かった。出口からは目の前にあるはずの駅なのに、駅までの距離は来た時の倍くらいに感じられた。
来た時は、
――やっと着いた。これから楽しむぞ――
という意気込みとドキドキという感情の楽しみがあったからだが、帰りというと、疲れたという印象と、想像以上に感じた寂しさによってテンションが完全に落ち込んでいたことから、足取りが重いことが起因しているのだろう。
電車の切符は最初から持っていた。乗る時に往復券を買っていたからだ。おじさんは定期券付きのプリペイドカードを持っていたので、パス入れをかざすだけだったが、あすなは自動改札に切符を通した。
小学校までは徒歩なので、プリペイドカードは必要がない。切符を買うというのも普通の行為だった。