棚から本マグロ
私はキッチンに行って三本ある包丁のうち一番大きいのを掴んで持ってきた。そして横たわる魚体のエラの後ろでムナビレの下辺りの肉を切り取った。
不思議な事に血液が流れ出す事も無かった。切り取った掌程度の肉は脂質の多いいわゆるトロと呼ばれる部分だった。私は強く目を瞑って何の味もつけずにそのまま齧りついた。
それは意外なほどに普通の味だった。もしかすると、何か異様な食感があるのではないかと身構えていた私には、拍子抜けするほどだったと言っても良い。
ただ、咀嚼して嚥下した時、咽喉から食道を降りて行く感覚はあったのだが、それが胃袋に収まったという感触は全く感じられなかった。
そして、それが私に火を点けた。
私は、私が食べた分だけ軽くなったマグロを抱えてキッチンに運んだ。ダイニング・テーブルに乗った幾つかの小瓶を払いのけてそこへ置く。
私は大きな魚体を解体しながら、同時に食べて行った。そして食べながら解体した。
さすがに味つけ無しでは続かないので途中からは塩を振った。醤油にしなかったのはできるだけ異物を排除したいという気持ちがあったからかもしれない。
しかし、幾ら食べても相変わらず満腹になる気配は無かった。
半身を食べつくして裏返す前に内臓を取り除いた。さすがに内臓を生で食う気にはなれなかったのだ。
本来なら最初に取り出すものなのかも知れないが、私にはそんな事はどうでも良いことだった。
内臓を引き出すときに何か硬いものの感触が有るのに気がついた。
流しに移して中身をしごき出すと、それはマリコの結婚指輪だった。
マリコと私の指輪は殆ど同じデザインのプラチナ製であったが、マリコのには小さなダイヤが五つ並べて埋め込んであった。結婚式のあと、拡げた自分の左掌を見ながらマリコが幸せそうな笑顔を見せていたのを思い出した――。
私はその思い出ごと指輪を飲み込んだ。
家庭用の包丁ではマグロの巨体を上手く捌くことは難しかった。ズタズタになった赤身の姿が私の何かを刺激したが、一向に満たされない食欲を抑制する力は持っていなかった様だ。
休むことなく食べ続けて翌日の明け方には殆どの身を食べ尽くし、残ったのは一続きの頭と背骨と尾ひれだけになった。
一心不乱という形容が当てはまる程の食べっぷりだったが、私は頭が取れたり、背骨が折れたりしないように気をつけていたのだ。