棚から本マグロ
私はリビングに戻ってソファで横になった。
頭を冷やそうと思ったのだ。眠ってしまっても良いと思った。しかし、心のどこかがザラついて、眠る事も、冷静になって考える事も、結局はできなかった。
そして、状況が何も変わらないまま、私はバスルームに戻った。
本マグロが水に浮いていた。
それは既にマリコではなかった。命の気配が消えている事は、ソファから立ち上がった時から既にわかっていたのだ。
突然、めまいが私を襲った。視界が外側から黒く塗りつぶされて行く。
茫然自失から醒めると先ほど見た風景が夢ではなかった事を思い知らされた。約六五キロの本マグロは浴槽の水に確かに浮いていたのだ。
私は両手でマリコの身体を掴んでゆすってみる。しかし、水に浮くマグロの身体はぴくりとも動かなかった。
私は浴槽からマリコだったマグロを抱き上げてバスルームの床に置いた。そしてそのまま抱きしめた。
私の目に涙が溢れてきた。
自分でも驚くほどの涙の量だった。二年前に自分の父親が死んだときにも涙は出なかったのに。その時は、私の代わりにマリコが泣いてくれた。静かな、音のない涙だった――。
私は浴室の壁に背中を預けて座った。とりあえず何もする事が無くなった。
何時間、そうしていただろう。
ふと、私は強烈な空腹感を覚えた。考えて見れば昨日の昼以降は缶ビールを一本飲んだだけで、その後は一日半、何も食べていなかったのだ。
しかし、私は動かなかった。冷蔵庫を開ければそのまま食べられるものが入っているのは分かっていたのに、である。
私の中で鎌首を擡げ始めた浅ましい欲望が無視できないほどに膨らんでいたのだ。
この大きな魚体をどうするというのだ。誰がこれを家を出て行った妻だと信じるものか。狂人扱いされるのが落ちではないか。
私は誰を納得させるでもない言い訳をあれこれと考えた。もちろん誰も納得などしやしない。しかし、そうすることは初めから決まっていた事だった。