棚から本マグロ
さりげなく発せられた言葉は、淹れたてのコーヒーをねだる時と同じように聞こえた。
私は一瞬、マリコが何を言っているのか理解できず、しかし通り過ぎた言葉を引き戻してみて目を丸くした。
「冗談はよしてくれよ」
私は思わず怒るふりをした。
「冗談なんかではないわ」
気負った風でもなくマリコは応える。
「できる訳がない」
「どうして? 放って置いてもそのうち死ぬから? わたし、それだけは嫌」
一見、体力を取り戻したようにも見えたが、決してそうではない事を私は漠然と感じ取った。
「それが嫌だったから――。わたしは家を出たのだもの。海に潜ってサカナになったんだもの。
ただ眺められながら一人で死んで行くのは怖いわ。最期にはせめて貴方の手を借りたいのよ」
そしてマリコは浴槽の水の中で私に銀色の腹を向けて横倒しになった。死期がすぐそこにまで迫ってきている気がした。
「やっぱりできないよ……」
その声がマリコに聞こえていたのか、私にはわからなかった。
横向きになって動かないマグロの腹に手を伸ばしてみた。目を瞑って手のひらで胸から下腹部のあたりの感触を確かめてみる。
するとマリコは横倒しだった体勢を元に戻して鋭く言い放った。
「頼みを聞いてくれないのなら、もうわたしに触らないで!」
マリコはあまり柔軟そうでない魚体を無理に捩じって顔をこちらに向けようよしている。
「都合の良い時だけ構わないでよ。ちゃんと看取ったっていう自己満足の為に。貴方はわたしを見殺しにはできても、楽にはさせてくれないのよ」
怒りが私の中で急激に膨らんできた。半分は見透かされた気がしたからであったが、もう半分は自分が妻に全く理解されていなかったという衝撃からであった。
私は慌ててバスルームを出た。頭がおかしくなりそうだった。このままではマリコの罵倒に負けてとんでもない事をしてしまうかもしれないと思ったからだ。