棚から本マグロ
当然だが、翌日私は会社を休む事にした。しかし、そのことをマリコは喜んでくれた様だった。私は休まないかも知れないと、本気で疑っていたようだ。
しかし、それとは裏腹に私を不安にさせたのは、マリコが夜を越える間に確実に弱って来ているように見えたことだった。
水道の水が合わなくなっているのかも知れない、と私は思った。
そこでマリコに、海に連れて行こうか、と訊くと、マリコはその必要はない、と答えた。海に着くまでは持たないだろうと。そして、私に釣り上げられた時にこうなる運命は決まっていたのだと言った。
私は釣り上げたとき、と言うのが海で釣られた時を言っているのか、それとも私たちが出逢った時の事を言っているのか、判断がつかなかった。もしかしたらその両方を言っているのかも知れない――。
それでも午前中は当たり障りの無い話しをいろいろとした。
元々マリコは口数の多い方ではなかったのだ。何かの話題を私に与えると、後は私が長々と話すのを真剣な面持ちで聴いていて、時おり気の利いた一言をあいづち代わりに入れてくるのが得意だったのだ。
私たちは以前のように、想い出話しや他愛の無い世間話しを、浴槽の水の中と外という普通ではない状況の中で楽しんだ。
しかし、陽が高くなる頃になるとマリコは話すどころか私の話しを聞くことさえ苦痛になってきた様だった。
私が浴槽に手を入れて背びれの付け根をそっと撫でると、思い出したようにゆらりと身体を揺らした。
だが、これまでの様に私に話しかける事は無く、表情からは読み取れないが、意識が次第に薄れて行っているのではないかと思われた。
私は背びれの付け根から尾ひれの先へ指をすべらせ、戻す指で腹から胸びれを撫でてみた。マリコは殆ど反応せず、水道の水がどうどうと勢いのある音を立てていた。
そうしながら私の意識は朦朧と覚醒の境界線の上で不安定に、しかしどちらに倒れるでもなくゆらゆらと佇んでいた。
突然マリコは浴槽の中で二度三度と水を叩き飛沫で私をずぶ濡れにした。
私は素手で顔を拭いながら、どうしたんだい、という言葉は飲み込んだ。
マリコは泣いていたのだ。ごく小さい童女の様に声を上げて。
ひとしきりそうした後、今度は声を詰まらせてまた泣いた――。
「わたしを殺して頂戴」