棚から本マグロ
やっぱり本マグロだったらしい……。
私は口には出さなかったはずだがマリコはどうやら私の思考を感じ取ったらしく、話しを止めて気配を窺っているようだ。
「いいのよ。貴方っていつもそうだったものね」
私は何かを訴えようとする妻のひたむきさから逃げ出そうとしていたのかも知れなかった。
私は妻であるマグロの顔を注視したが、そこからは何も読み取る事はできなかった。ただ、私とマリコの間の空気が急速に冷えて行くような気がした。
バスルームにはどうどうと水の音だけが響いて聞こえた。
「ねえ」
私は何も話さなくなった妻に話しかけた。
「アイツとは本当に何も無かったの」
「ないわ。わたしあの人嫌いだったもの」
即答であった。
「貴方のお友達だから我慢してただけ。貴方には言わなかったけど、一度だけ貴方が居ない時に家に来た時が有ったのよ――。貴方は居ないって言ったら。わたしに会いに来た、ですって。
わたし、あの人を玄関の外で待たせておいて、奥からバケツに水を汲んできたわ。それで、どうぞって。で、玄関のドアを開けた瞬間に頭から水をかけてあげたの。だからあの人最近は来なくなったでしょ」
マリコは興奮したのか尾びれを一振りして浴槽の水を撥ね上げた。
「でも結局、それで随分と怒らせちゃったみたいね――」
大きく揺れる浴槽の水の中で、マグロの身体がユラリユラリと揺れていた。
「ねえ貴方、さっきわたしに元に戻らないかって訊いたでしょ。考えようによってはわたしって何も変わっていないのかも知れないわ。
だって、わたしってもうかなり前からどうして良いかわからなくなってた。貴方はすごく優しいけど貴方は貴方の閉じた世界を持っていたわ。貴方もわたしも仕事は忙しかったけど、わたしは二人でいるときには二人一緒に居ることを実感したいって思ってたの。でも貴方は自分が必要な時以外はわたしに触れてくれなかった。わたしが手を伸ばしても貴方には届かない事が多かった。それって今のこの状態と変わらない。わたしは以前から、おフロ場のマグロみたいに手も足も出す事ができなかったのよ」
それきりマリコは喋らなくなった。私が疲れたのかと訊くとそうだと言うので、とりあえず水は出したままで灯りを消して寝ることにした。リビングの壁掛け時計に目をやると、とっくに零時を回っていた。