棚から本マグロ
「これで良いかい」
真水でも大丈夫なの、という私の問いに対して妻は、完全にサカナになった訳じゃないから大丈夫なのだと答えた。
「ありがとう。できれば水は出しっ放しにして貰えないかしら。その方が楽みたいだわ」
エラ呼吸の割合が増えたのだろうか。そうだとするとマリコの身体は思った以上に本物のマグロに近づいているのかも知れない。
私は妻の身体を一旦浴槽から出して、カランの下の水流に口が来るように入れなおした。本来、マグロというサカナは泳ぎ続けていなければ酸素を取り入れる事さえできない生き物なのだ。
しばらくそうしていると随分楽になった様で、マリコは再びとりとめも無く海の話しをし始めた。水道はどうどうと音をたてて、泡の下の顔もよく見えない状態だったが、私と妻の会話にはさほど影響は無かった。
話しが途切れたので、今度は私が切り出した。
「ねえ、ここへ戻って来てくれないかな」
マリコは直ぐには応えなかった。
「戻ってって言われても、今わたしはここに居る訳だし、もう出て行こうにも自分ではどうすることもできないわ」
「いや、そうじゃなくて……。その身体にも問題があるし、できればその、昔のキミに戻って帰ってきてくれないかなって」
――。
「どうだろう」
「――タカユキさん」
マリコが私を名前で呼ぶときはいつでも真っ直ぐに私の目を見つめたものだ。だが、今は水泡の中に沈んでいるサカナの目は私を見ているのかさえ判らない。
「世の中には元に戻るものなんて何ひとつとして無いわ。あらゆるものは前に進むしかないのよ。たとえわたしのこの身体が元の人間のカタチに戻ったとしても、魚になって海を泳いだわたしが消える事は無いの。魚になったことの無いわたしには二度と戻れないわ」
マリコの言い分はまことに正論で、私には反論の余地など無かった。
「貴方にしてもそう。家を出て行った妻が本マグロに変わってしまった事実を消し去って生きて行く事はできないのよ」