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短編集73(過去作品)

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 と思いながら、どうしても否定できない気持ちが、決して自分の視線を足元に向けさせないのだろう。
 そういえば以前にも同じような思いをしたのを思い出していた。
 あれはいつ頃だったのだろうか? ハッキリと記憶があるわけではない。何となくウキウキした気分で、頭の中で当時流行っていたポップスが流れていたような気がする。足取りも軽く、まるでスキップするような気分だったのには違いないが、それも途中までだった。
 頭の中に急に不安が湧いてきたのだ。それがどこから来るものなのか分からなかった。
あの時も同じように直哉の家に朝方近くまでいて、そこからの朝帰りだったはずだ。
 ちょうど朝靄が掛かっていて、風はなかったが肌寒い感じがあった。前の日に降った雨がまだ、地面を濡らしていて、湿気がベタベタと身体に纏わりついて気持ち悪かった。
 そんな中、朝日が雲間から漏れていて、少し明るいだけに余計寒さを感じたのだろう。
――あれ? 急にヘンだな――
 さっきまであれだけ軽やかだった足取りが、急に重たくなった。それこそ、水の中を歩いているかのようで、掛かっている白い靄が、水の中の抵抗感のように私に襲い掛かっているような感じだった。
 それでも何とか足を動かして前に進もうとする。
 視線は正面を捉え、なるべく足元を見ないようにしていた。前を見ながら正面の目印を確認して歩かないと、どうしても不安だったからである。
 その不安がどこから来るものか分からなかった。しかし足元を見てしまうと、余計に足取りが重たくなり、進んでいるようで、まったく進んでいないという錯覚が強くなると感じたからだ。正面を見て歩いている限りでは、とりあえずゆっくりではあるが進んでいることの確認はできそうだった。
――それにしても、この感覚は何なんだ?
 実に不思議な感覚だった。しかし、その時もそれまでに感じたことのないものではなかった。初めてなのだということを意識しながら、自分の中で妙な納得があった。今から思えば、今日のこの瞬間を予期していたような、おかしな感覚である。
 私はその時、私を待っているのが当時付き合っていた女性であることを予感していた。それだけに急いで帰りたかった。
――早く会いたい――
 気持ちはただそれだけだった。だからまるでスキップを踏みたいような気分になれたのだし、気持ちにもかなりな余裕があった。そう、途中で浮かんできた不安が、その余裕を一気に打ち消してしまったのだろう。
 当時付き合っていた女性は、私に対して従順であった。
 彼女とはもう付き合いはじめてに二年以上が経つが、喧嘩すらしたことがない。もちろん私が怒り出すこともないし、彼女が怒ることもなかった。
 一度聞いたことがある。
「そういえば、ずっと付き合ってきたけど、喧嘩になったことなんてないね」
 苦笑しながら彼女が答える。
「ええ、そうね。どうしてなのかしらね」
「今まで、これで普通だと思ってきたけど、恋人同士って結構喧嘩するものじゃないのかな?」
「そうかも知れないわね」
「君は僕に対して、怒りの気持ちが出たことってないの?」
 しばし彼女は考えていた。
「ないとは言えないかも知れないわね。でも、なぜか表に出す気にはなれなかったわ。あなたには、私に対してそんな気持ちになったことないの?」
「僕はないね」
 そう言いながら、頷いていた。確かに自分の記憶の中に彼女とのこの二年間、そんな気持ちになったことはなかった。気持ちに余裕があったからかも知れない。
「あなたを見ていると、怒りって感情が湧いてこないのかも知れないわ。もちろん、あなたが、私を怒らせるようなことをしないからだけどね」
 そう言って微笑んでいる。間違いなく微笑んでいるように見えたのだ。
 男としては、そう言われると嬉しいものである。
――喧嘩にならないに越したことはない――
 付き合っている以上、これが理想である。相手を怒らせるようなことをしないと言われて、私はまた自分の心に余裕ができた気がした。彼女の言葉を額面どおりそのまま受け取っていたのだ。
 だが、心の隅に不安がないわけではなかった。
 元々不安があって、それが見えてきただけなのかも知れない。得てして満足感に浸っている時というもの、急によからぬことを思い浮かべたりするもので、私の場合も類に漏れず、だった。気持ちの中で、何となく釈然としない思いがあったのも事実で、今まで見ることのなかった心の奥を覗いたような気になってしまう。
 私はきっと鈍感な方である。
 最近気がついたわけでもないが、それを感じるのは、いつも直哉のところに行って、夜を徹して話したあとである。同じように朝方の帰り道、いつも同じような気持ちになっていることに歩きながら気付いている。
――朝靄もいつものことのような気がする――
 身体にへばりつくような湿気で重たく感じるのも、以前に何度も味わったことがある。その都度、部屋に忘れてきた何かを感じてしまうのだった。
――そういえば、前付き合っていた良子の身体の温もりが残っているようだ――
 朝靄の中、重たい身体がそれを覚えている。良子の身体はきっと私の身体にフィットしていたに違いない。いつまでもその余韻が私の中に残っているのも良子だけだった。
 良子は、不思議な女性だった。
 彼女は私に従順だったのは、喧嘩をしたことがないだけではなかったような気がする。
確かに喧嘩がないことで、彼女の気持ちが私に靡いていることを確信しているはずだったのだが、それが時々不安にさせることがあった。
 そのため、いつも何かを良子に確認していたような気がする。同意を求めるような会話をしていたのは、きっとその思いが強かったからに違いない。
「どうして、そんなに確認したいの?」
 良子が時々私に聞いていた。
「君をいつもそばで感じていたいからさ」
 と答えていたが、今から思えば、果たして彼女がそんな私の答えを期待していたかどうか疑わしい。というよりも、そこから会話にならなかったのも事実である。それを良子が私の言葉を理解してくれたと勝手に思い込んでいたのかも知れない。
 そんな私を見る良子の視線を感じたことがなかった。今から考えると、女性にとって気持ちを確認される会話が、かなり疲れるものであるということが、おぼろげながらに分かる気がする。
 そういう意味で、私は自分が鈍感なのではないかと思うのだった。
 女心を分かっていないと言えばそれまでだが、それ以外でも肝心なことを忘れているような気がするのだ。それを彼女にあって確かめたい。今急いで部屋に帰ろうと思うのは、何かしらその答えが今から向おうとしている自分の部屋にあるような気がして仕方がないからだ。
 それにしても足の重たさがひどくなってくる。気持ちが高揚してくればしてくるほど、
重たくなってくるのだ。
 額から脂汗を流しながら考える。
――良子は私のことをどう思っているのだろう?
 最初は彼女の方からのアプローチがすごかった。
――一緒にいて楽しい女性――
 それが良子だと思っていた。彼女も私の印象をそう話してくれている。
作品名:短編集73(過去作品) 作家名:森本晃次