短編集73(過去作品)
その時の取材では、かなり相手のことも考えず失礼な取材をしたかも知れないと自責の念に駆られたのは、取材から帰って少ししてからであった。ちょうどその頃付き合っていた女性と別れた頃であり、この街の取材をした頃から、お互いにギクシャクし始めた。
後から考えれば、本当に好きだったのか疑問が残った。しかし付き合っている頃は「あばたもエクボ」、何でもよく見えるというものである。何とか気持ちを引きつけておこうという気持ちばかりが先行し、仕事も半分手につかない時期があった。
自分にとって理想の女性。
付き合い始めて、その気持ちが揺らいだのは、その時だったのかも知れない。私の人生で最高のパートナーなどと思っていたことすら、まるで嘘のように思え始めたのである。
食事を摂ったあと、私は散歩に出かけた。
前に来た時にも取材したのだが、この近くに滝がある。それほど大きいという滝ではないのだが、夜になるとライトアップされていて、観光地でないこの土地で唯一観光できるところと言ってもいいくらいだ。
宿を出ると表はまだ蒸し暑かった。
浴衣姿に下駄を鳴らして歩いていると、いかにも落ち着いた気分になれる。今まで取材のための旅行が多かったので、旅に出てもほとんど履くことはなかった。だいいち歩きにくいだけである。
「カラ〜ン、コロ〜ン」
乾いた音が当たりにこだまする。擬音というのはそのつもりで聞いていたら、本当にそのように聞こえてくるから不思議である。
宿から少し歩いただけで、まわりは街灯があるだけで真っ暗である。民家のあるところからも少し離れていて、小高いところに位置していることもあってか、一旦途中までくだりだった道が、急な上り坂に変わってしまう。舗装はされているが、まわりは森林になっているところで、かすかながらの街灯くらいでは生い茂った森林の奥は気持ち悪く見えてしまう。
下駄の鳴る音が乾いた道を叩くのだが、こだまが帰って来るのが森の奥からなので、腹の底に響くような気持ち悪さを感じる。
懐中電灯を借りてきて足元を照らしていたが、そのうち森の奥から明かりが漏れてくるのが見える。さっきまで果てしなく続いていた森の中の闇から漏れてくる明かりである。何度見ても不気味以外の何ものでもない。
だいぶ涼しくなってきた。
「ザー」という音が次第に大きくなってくる。普段であればそれほどでもないかも知れないが、何と言っても吸い込まれそうな森の闇が支配している場所では、どんな音でも大きく聞こえてくるというものである。
冷たい風が森の間から吹き抜けてくる。
目の前に浮かび上がったライトを目指して、ゆっくりと確実に歩を進めた。
森の入り口はすでに分かっている。以前来た時も迷わず入れたので、今回も間違いないはずだ。
道なりに歩いてくると、涼しい風の吹き抜ける場所が分かった。それが滝に行くための唯一の入り口である。
木々の間から漏れてくるライトアップを追うように山道に入っていくと、あまり整備されていない道であるにもかかわらず、つまずくこともなく歩くことができた。一度だけ三年前にきただけなのに、まるで毎日日課として歩いているような錯覚を感じるくらい自然に山道に入って行けた。
「ザクッザクッ」
折れた小枝を踏みしめるように歩いていくが、さすがに滝が近いのが、足元がぬかるんできているのが分かる。すでに下駄だと足を取られそうである。
ライトアップで彩られた滝を目指してやってきたので、目は滝しか追っていなかった。確かにここは唯一の観光地ということで、先客として来ていたアベックとすれ違っても不思議のないことだった。いきなり影のように目の前に現れたアベックを見て、一瞬たじろいでしまった。
もちろん顔までは確認できない。寄り添うように抱き合いながら私を避けるようにしてすれ違って行ったが、何よりも逆光になっているのでシルエットになって見えるはずもないのである。
滝が見えるベストポジションにやってきた。
あまり先まで行くとそこは断崖になっていて危ないのだが、見晴らしのいいところは少し広くなっていて、見学用のベンチが置かれている。
そういえば、三年前はちょうど誰もいなくてそこに座ってゆっくりと見たものだった。見晴らしのよさを考えての設計だろうが、観光客以外でも街の人の憩いの場となっているようだった。
私は滝を見ながら番地の近くまで来た。
一人だと思っていたのだが、そこに白いものが見えた時、瞬時にしてそれが女性であることを直感していた。
「あっ」
思わず声が出たが、それほど大きくない声でてっきり滝の音に掻き消されたに違いないと思っていたのに、その人はこちらを振り返った。
白いワンピースを着たその女性は、ワンピースを着ているからだろうか、それともライトアップの光の加減だろうか、肌が真っ白だ。
「こんばんは」
キーの高いその声を聞いた瞬間私は三年前に付き合っていた女性を思い出した。まったく同じ声である。理想の声と感じていた三年前を思い出し、目を瞑れば瞼の奥に三年前付き合っていた女性の顔を思い浮かべようとした。
しかし、だめだった。どうしても付き合っていた女性の顔が思い浮かばない。普段何でもない時に急に思い出したりすることはあっても、思い出そうとするとだめなことは普段の生活の中でもあることだ。
彼女はそれだけ言うと、滝をじっと見つめている。
彼女の横顔を見ながら私は何となく釈然としない思いを抱いていた。
私はどうしてここに来たのだろう? よくよく考えれば今回の旅の目的がこの滝にあったような気がして仕方がない。
忘れ物を取りに来た……。
そういう感覚である。
私も彼女と同じように滝の流れを目で追っている。上から下に勢いよく流れる水を見ていると、自然と目は流れを追ってしまう。そして溜まっている下の水に叩きつけられ、激しく砕けるのだ。ただその繰り返しである。
私は確かに三年前もここにやってきた。その時、どんな思いでこの滝を見ていたのだろう? かっきりと思い出すことはできない。しかし流れ落ちる水を三年前もじっと見ていたことだけは確かなのである。
「まるで吸い込まれそうですね」
「ええ、そしてすべての音が水の流れに吸い込まれて、最後は叩きつけられて終わるような気がしますわ」
私は思わず頷いた。
「嫌なことはすべて忘れられそうなくらいですね」
彼女の言葉はまるで私を代弁しているようだった。
「嫌なことを忘れに来たんですか?」
「逆ですわ、思い出しに来たのかも」
そう言って彼女は初めて私の方に振り向いた。その顔は穏やかというよりも、表情がない。じっと見ていると、まるで能面と向き合っているようで気持ち悪かった。
「あなたはどうしてここに来たのですか?」
最初に聞いてみたかったことである。私自身、彼女の顔を見ているとどうしてここに来たのか、目的が分からなくなってしまっていた。
「どうしてなのかしら、さっきまでは覚えていたはずなんですけど」
彼女も私と同じなのだろうか?
「でも……」
一瞬間があり、
「とにかく、苦しみから逃れたいという気持ちが強いのかしら」
作品名:短編集73(過去作品) 作家名:森本晃次