短編集73(過去作品)
確かこの滝も取材の対象にしていたことを思い出した。どこかでこの滝について曰くありげな話を聞いたからなのだが、三年前、私はそれを記事にしようとはしなかった。
かなり信じがたい興味のある内容だったと記憶しているが、それがどういうことだったかは覚えていない。とにかく不思議な滝であることに間違いないのだ。
「私は前にもここに来たことがあるんですよ」
「私も初めてではありません」
そう言った時に見た彼女の顔が私の理想の女性であることに気付き始めた。
そう思うと先ほどの露天風呂で見た影のことを思い出す。あの影に対してもまるで自分の理想の女性がいるような気がしていたのだが、はっきりと確認できなかった。しかも人の気配をほとんど感じることがなかったのにである。
「最初来た時は一人じゃなかったんです。その時付き合っていた彼と一緒だったんです」
ゆっくりと彼女は話を続ける。
「でも、あれから私は一人になりました」
「別れたんですか?」
「分からないんです。その日を境に彼は私の前から姿を消してしまって」
「それはいつのことですか?」
「一週間くらい前のことですか……。どうしても信じられなくて、もう一度ここへやってきたんですけど、結局分かりません」
「忘れられないんでしょうね」
「ええ、私にとっての理想の男性でしたから。でも不思議なんですよ。この滝を離れるとずっと覚えていたはずの彼の顔がどうしても思い出せないんです。そしてここに来ると何か思い出せるのではないかと思って、やってきたんですけども」
「でも、嫌なことを忘れに来たという思いもあるんですよ。しかも強く、どうしてなのかしら?」
「最初に彼と来た時がそうだったんじゃないですか?」
少し沈黙があり、下を向いて考えていた彼女がこちらを向き直り、
「そうかも知れません、たった一週間前のことなのに、なぜかはっきりと思い出せないんですよ」
私も三年という月日が経っているのに、ここに来たのがまるで昨日のことのように思い出せる。しかし、たとえそれが昨日のことであったとしても、その時何を考えていたかを思い出すことは不可能な気がしていた。
そこには「空白の記憶」が存在するのでは?
何かを探しに来た……。
これが最初の目的だったが、いったい何を探しに来たのだろう?
彼女は彼と一緒に来たことは覚えているらしいが、そこから先は覚えていないという。
私が来た三年前は間違いなく一人で来た。取材だったので、誰かと一緒ということはない。付き合っていた彼女と別れて寂しかったという思いを抱きながらこの温泉にやってきて、この滝にも来たのだ。
ただ、ここに来るとウキウキした気分になれる。今回この土地を訪れた最大の目的は、この滝に「何かを探しに来ること」だった。漠然と探し物をしに来る感覚で、ウキウキした気分になれるのを思い出したのは山道に入ってからだった。山道に入ってから木々の間から見える「木漏れ日」のような光が、そんな気分にさせる。
「ここに来るとウキウキした気分になりませんか?」
少し不謹慎だったかも知れないと思いながら聞いてみた。
「ええ、そうなんですよ。ここには何か魔力のようなものがあると聞いてきたはずだったんですよ」
「魔力……ですか?」
「ええ、それがどんな魔力かは思い出せないんですけど、彼がここにとても来たがっていたのは事実なんです」
「ここの温泉が子宝に恵まれる効用があるのはご存知でしたか?」
「いいえ、知りませんでした。でもあるいは彼なら知っていたかも知れません」
「ここに来ようと言い出したのは?」
「彼の方です。私は彼の言うままついてきただけですよ」
「あなたは従順な方なんですね」
「そうかも知れません。ある意味世間知らずの私を、いつも彼がリードしてくれる。そんな仲ですね。だからうまく行ってたんですわ。結構長く続いていたんですよ。三年は続いていましたから」
三年というと私がここ初めて来た時だなどと考えていたが、探し物があるのを忘れていた期間でもあると感じた。
「三年は長かったですか?」
「私には長かったですね。でも彼はどう思っていたか分かりませんけど」
私にとっての三年はあっという間だった。その間に彼女もおらず、仕事の方で独立したりと多忙だったからかも知れない。
一口に三年といっても、人それぞれ感じ方が違う。私のように長いようで短かったと思っている者もいれば、彼女のように純粋に長かったと感じる人もいる。その時よりも後から思い返した時の方が真実をついているのかも知れない。
しばらく二人の間に沈黙があり、じっと滝を見つめていた。
「本当に吸い込まれそう」
次第に滝に近づいていく彼女を最初私は分からなかった。しかし、呟くようにそう言った彼女を見ていると明らかに滝つぼに近づいている。歩いているというよりも本当に吸い寄せられると言った方が正確で、よく見ると小刻みに足が震えていた。
「危ない」
私の言葉で我に返った彼女は一瞬、ハッとしていた。
顔からは血の気が引いていて、声を掛ける瞬間までは自分でなかったかのようにあたりを見回していた。
「洋二」
今度はそう言って、私の顔を凝視している。洋二というのが彼女の彼氏であることはすぐに分かったが、一瞬浮かんだ懐かしいようなほっとしたような表情が次第に変わっていった。
思わず私は後ずさりする。
緊張からこわばった表情に変わった彼女の目はカッ見開いていて、完全に私は「蛇に睨まれたカエル」状態であった。
覚悟を決めた表情。
少しずつ近づいてくる彼女の一歩一歩に表情が変わってくる。激しくなってくる胸の鼓動が私にも聞こえてくるようだった。
その表情にもはや顔色はなかった。何が恐ろしいと言って、顔色のない表情ほど怖いものはない。まるで死人に見つめられているようで、自分の額から流れ出る汗すら気持ち悪いと思わないほど、私は感覚が麻痺していた。
しかしそんな状態の中で、私の記憶の中で何かがよみがえろうとしていた。
恐ろしいという感覚が次第に薄れてくる。身体だけは汗を流したり後ずさりして反応しているが、感情が麻痺しかかっているのかも知れない。
彼女の表情、それは三年前まで私が付き合っていた女性になっている。
自分にとっての理想の女性と思っていたのは今は昔、自分の知っている彼女の顔ではない。
カッと見開いた眼に私の姿が写っている。吸い込まれそうな瞳の恐ろしさに足がすくんで動けなかったが、その表情も長くは続かなかった。
形相のどこが恐ろしいのか考えていて、まるで断末魔の表情だと感じた瞬間だった。彼女の表情が少しずつ変化していく。
何となくホッとしたような気持ちになったのも束の間、さらに恐ろしい形相が私を待ち受けていた。
その顔に表情がなくなってきた。
さっきの形相からは、何かを訴えようとしていたことがうかがえたが、今度のようにまったくの無表情であれば、相手が何を考え感じているか想像もつかない。
特にさっきのような般若の表情から、能面の無表情に変わるのである。ギャップだけでも恐ろしい。それでも視線だけは私から離れないのだ。
作品名:短編集73(過去作品) 作家名:森本晃次