苦界に降る雨
昨日の朝、客をすっかり送り出すと、きぬはご内所に呼ばれた。
そして奥の行燈部屋から聞こえて来る絶え間ない悲鳴に、遊女たちは震え上がったものだ。
そして、そのきぬが今日はいない。
きぬがどうなったのかを訊く者もいない。
品川や新宿にでも送られたのか……だとしたらきぬの年季が明けることはもうないだろう……だが、それは良い方の想像だ……きぬはもう三十路、むしろにくるまれて冷たい雨に打たれていないとも限らない……。
雨の吉原……どれだけ灯りをともしてもお天道様の降らせる雨には敵わない。
(今日はなんだかみんなくすんでる……華が咲かない吉原は寂しげだな……)
かよは人影の少ない通りをぼんやりと眺めながらそんな風に思っていた。
五年後・旧暦五月二十五日
雨の中、与平が通りの反対側を歩いて行く、傘をさしているのだから顔位隠せば良いものを……その浮かれた様子には腹を立てるよりも笑ってしまう。
与平はしばらくのあいだ、かよの元へ足しげく通って来ていた。
大店とまでは行かないものの、そこそこ大きな店の番頭だと言う触れ込み。
確かに旦那と言うほどの貫禄や鷹揚さはなく抜け目がないようす、大店を仕切る番頭ほどの器には見えないが中くらいの店の番頭だと言われればそんなものかと思う、金に細かい割に身なりは相応に金がかかっていて、遊びにも慣れているようにも見えた。
かよはそんな与平をあまり好いていなかったが、通って来てくれているのは確かだし、与平の方ではかよをいたく気に入っている様子だった。
金には細かいのでいざと言う時に用立ててくれるかどうかまでは定かでないが、職人や棒手振りでは金が要り用になった時に頼り甲斐がない。
そんな思惑もあって与平を大事な客と扱っているうちに、身請けの話を持ち出された。
別に好きな相手ではない、だが吉原〈ここ〉連れ出してくれると言うなら有難い、かよは一層与平を大事に扱った……しかし、身請けの話は文字通り話だけ、ちっとも実行してくれそうにない。
そしてとうとう『身請けの話はどうなってるのさ』と訊くと、それからばったり来なくなった。
つまるところ、良い思いをしたいばかりにそうやって遊女を釣っていただけのこと。
吉原は女狐と古狸が化かし合う場所、かよは自分の負けと潔く認めて与平のことは綺麗に忘れていた。
そして、すっかり忘れたころになってまた吉原に姿を見せるようになった……またどこぞの遊女に身請け話を持ち出してはもてなされようとしているのだろう、あるいはもう誰ぞを釣り上げたのかも知れない。
与平の能天気な姿に思わず苦笑してしまってから、かよは自分で自分が怖くなった。
いっそ『騙された』とばかりに錯乱していればまだ可愛げもある、しかし、客を化かすのが遊女の仕事、逆に騙されるのはまだまだ甘いしるし、そう割り切れてしまうのだ。
苦笑は与平に向けたものだったはず、なのにそれが知らずに自分に帰って来た……。
吉原〈ここ〉での暮らしも長くなって、すっかり身も心も遊女の色に染まってしまったことを改めて思い知った心持がした……。
六年後・旧暦五月十日
「軽く済んで良かったねぇ」
やり手おばさんはそう言った。
確かに薬では埒が明かないこともあり、その時はもっと手荒なことをされるだろうから『良かった』と言えるのかもしれない。
だが、やりきれない思いは残る、何故なら子を流したのだから……。
子を孕んでしまうことがあるのは遊女の宿命、今までなかったことをむしろ幸いだったと思わなければならないのかも知れない。
ほおずきの根から作ると言う酸漿根。
それを飲まされ、女陰にも塗り込まれてしばらくすると、下腹が痛み出した。
すると、床に寝かされ、おばさんにさんざん腹を押され、女陰に指を突っ込まれた。
流れたのは自分でもわかった、どっと血が流れたから……その中には赤子のなれの果てもいたはず、だが、かよにはそれを見る勇気がなかった。
おばさんは手慣れたもので、さっさと片付けると薬湯を持ってきてくれた、それを飲んで休んでいると、下腹の痛みも少しづつ和らいで行く。
すると無性に悲しくなった。
流してしまった赤子には何の罪もない、自分の腹を選んで宿ってくれた小さい命。
それを産み育てることは許されない身だとは言え、今、自分はその命を葬ってしまった。
父親が誰なのかなどと言うことはわかろうはずもない、だが、母親は間違いなく自分だったのに……。
腹に宿しながら腕に抱くことのなかった子……かよはその子を思って泣いた、泣いて泣いて、泣き疲れると可笑しくなって来た。
(あんたも迂闊だねぇ、ちゃんとした夫婦のところに宿ってれば産まれて来れただろうにねぇ……堪忍しとくれよ、あたしのところに来ちまったのが運の尽きだったと思ってさ、あたしだって流したくて流したんじゃなかったんだよぉ、今度誰ぞに宿る時にはしくじるんじゃないよ……)
少し気が軽くなると、かよは眠りに落ちて行った……疲れ果てて……。
七年後・旧暦五月十七日
「もう来ないでおくれ」
かよがそう言うと、半次は怪訝そうな顔をした。
「どうしてそんなことを言う?」
無理もない、大雨を衝いてまで来てくれたのだ、かよだってそんなことを言いたくはない。
半次は染め物職人、ようすの良い男で、どこへ登楼〈あが〉ってももてそうだが、このところかよの元へ通い詰めてくれている、今日だってずぶぬれになりながら来てくれたのだ。
半次は男前だが浮ついた男ではない、かよだって憎からず思っている。
だが、歳は一つ下の二十四、この先、綺麗なおかみさんをもらって幸せに暮すことだってできるはず……だとしたら……。
かよは腕をまくって見せた。
赤い斑点が現れている……梅毒を伝染〈うつ〉されたのだ。
半次にももう伝染してしまっているかもしれない、でも、そうとわかったからにはもう半次に抱かれるわけには行かない。
「あんたが来てくれて、あたしは嬉しいんだよ、でもね、あんたに伝染したくはないんだよ」
半次はしばらくかよを見つめていたが、やがて小さく頷いた。
女郎買いをするなら梅毒を伝染されるかもしれない、それを男たちは皆分かってて吉原に来る。
遊女も商売、伝染すことを恐れていては仕事にならない。
それでも、自分に対して誠を見せてくれる男に伝染すのはしのびない、それが憎からず思っている男ならなおのこと……。
半次はその晩、かよと一晩過ごしたが、何もせずに帰って行った。
その姿を見送りながら、かよは思った。
自分はもう好いた男に抱かれることはない、遊び慣れた男の玩具になるだけ……。
そんなことは初めて客を取らされた晩からわかっていたけれど……。
十年後・旧暦五月十七日
かよは病の床についていた。
今日はしづの十回目の命日だが、もはやかよには日付もわからない。
時折朋輩が顔を見に来てくれるが、それが誰なのか思い出せないこともままある。
すっかり毒が頭まで回ってきてしまっているのだ。
遊女となってから十三年、かよにはとうとう本当の情人〈いいひと〉はできなかった。