川の流れの果て(7)(終)
しばらくして、留五郎がぽつっと、「あいつは、いつも笑ってた…」と口にした。
「いつも笑ってた…泣きもしねえ、悔しそうな顔だって、いっぺんもしなかった…でも、俺達だって…よく考えりゃあ分かったんだ。泣かねえ人間なんか、一人たりとも居ねえじゃねえか!いつもいつも笑ってて、平気で居られる人間なんか居ねえじゃねえか!俺達はそんなことにも気づかなかったんだ!」
留五郎はそう叫ぶと、悲しみと怒りが頂点に達したのか、自分の膝を思い切り殴りつけて、「ちくしょう!」と叫んだ。
「なんて奴だ!又吉をそんな目に遭わせるなんて、畜生だ!そんな奴を生かしておくわけにゃいかねえ!俺がこの手で直々にぶっ殺してやる!」
涙を振りまいて留五郎はそう叫んで店を出て行こうとしたが、三郎がその腕をなんとか掴んで、必死の思いで足を踏ん張って留五郎をその場に引き留めた。
「留五郎!落ち着け!落ち着くんだ!そんなことしたってなんにもならねえ!」
「止めんじゃねえ!なんでおめえはそんな風に、こんな時にまでものを考えていられるってんだよ!おめえも泣け!怒れ!じゃなきゃ人間じゃねえ!」
留五郎ももうわけが分からなくなっているのか、目の前の三郎に怒鳴った。だが、三郎は動じなかった。
「俺だって泣き狂いてえ。でも、お花さんの気持ちを考えてやれ。又吉を一番大事に思ってたのは、お花さんなんだ」
そう言ってから三郎は唇を噛みしめて留五郎を見つめていたが、ふと、三郎の唇の端から、つう、と血が垂れた。
「さ、三郎!おめえ、唇が…血が出てるじゃねえか!噛むんじゃねえ!こら!ちぎれるぞ!泣かねえ!泣かねえからやめろ!」
留五郎は慌てて目元をごしごしと拭い、三郎の肩を両手で揺すった。与助もそれを見て、「よせ!三郎」と叫ぶ。
「柳屋」は、もうめちゃくちゃだった。誰もが悲しみ、誰もが正気を失っていた。
三郎はやがて唇を噛むのをやめ、留五郎も怒りでふうふうと漏れ出る鼻息を抑えていたが、三郎が不意にこう言った。
「…覚えておくんだ、留五郎」
「え…?」
お花がむせび泣く声だけが響いている。そこへ、三郎の低い唸り声が混じった。
「俺達は、又吉がこの江戸に居て、誰よりも優しかったと、覚えておくんだ…これは…あいつの選んだことなんだ…」
三郎は噛み痕の残った真っ赤な唇をわなわなと震わせ、やっとのことでそう言った。
留五郎は何も言えず、必死の形相のまま動かなかったが、やがて腰が抜けてしまったようにその場にへたり込むと、膝を抱えて静かに泣き出した。
「そうだ…あんなに優しい奴ぁ居なかった…」
与助もそう言って、頻りに顔中を擦り回して泣いた。三郎は最後まで足を踏ん張っていたが、そこで初めて、がくっと床几に座り込んだ。
吉兵衛はお花の泣くのが治まってくると店を閉め、留五郎達は吉兵衛に勘定を渡して、呆けたようになって店へ帰った。誰ももう、喋らなかった。
作品名:川の流れの果て(7)(終) 作家名:桐生甘太郎