川の流れの果て(7)(終)
あの日から、ひと月半ほどが過ぎた。
留五郎と与助はしばらくの間、又吉を死に追いやった憎き番頭を罵っていたが、いつまでそうしているわけにもいかず、時折目を伏せて考え込む以外に、やることはなくなってしまった。
その日、三郎は一人で、昼前の「柳屋」へ顔を出した。まだ寒い、二月の始めごろである。
店に客は少なく、まな板の前に、いつもの通りに吉兵衛が居た。奥で皿を洗っている娘の後ろ姿をお花だと思って、「元気になったのか」と三郎は安心しかけたが、その娘が皿を抱えてくるりと振り向くと、それはまったく見知らぬ娘であった。
「親方、お久しぶりです」
「ああ、三郎さん。久しぶり。今日は良い身欠き鰊があるが、どうだい」
三郎が挨拶すると、吉兵衛も微笑んでそれに返し、いつものように肴を勧めた。
「へえ、じゃあ、酒を二合と、鰊を。鰊は、炊いたもんですかい」
「そうだよ。じゃあ、支度するから待ってておくれ」
「お願いしやす。親方、ところで…お花さんは…」
三郎が聞きにくいながらもそう聞いて、店に姿の見えないお花の様子を確かめようとすると、吉兵衛の顔色がさっと曇り、しかし気丈に悲しみを堪えるように、すぐにぎゅっと眉間に力が込められた。
吉兵衛の言うには、お花は又吉の死を受け止められずに家で泣き暮らしていて、「尼になりたい」と言ったり、「自分もその傍に早く行きたい」と口走るようになったという。
そんなお花を止めるため、吉兵衛が又吉の位牌を拵えてやって、「成仏を祈ってやれば又吉のためにもなるし、あの世でもきっと会えるから、生きていてくれ」と頼み込むと、こっくりと頷いたという。
それからのお花は、一日中仏壇の前から離れず、泣きながら念仏を唱えているらしい。
「食べるものもろくに食べず、一日中仏壇の前でそうしている姿が、かわいそうで見ていられないのです…。それに、店は続けなければ、お花もあたしも、生きていけません。こうして店に立ってはいますが、今この時も、お花は家で又吉さんのために祈っていると思うと…あたしが…あたしがあの子に、ゆくゆくは又吉さんと一緒にしてやるつもりだ、なんて言わなければ…もしかしたらこんなことにはならなかったと思うと、あの子に本当にかわいそうなことをしたと思いまして…」
そこまでを言い、吉兵衛はがっくりと俯いた。乾いた地面に、ぽたりぽたりと雫が落ちる。
ああ、人が前触れもなく死ぬというのは、こういうことなのだ。その時、三郎はなぜか、自分の中で誰かがそうつぶやいているような気がした。
「親方…なんと申していいやら…親方もお力落としでしょうから…本当に、なんと言っていいのか…」
「ありがとうございます、あたしは大丈夫です。お花が…早く良くなってくれればと、そればかりでございます…」
「はい…」
三郎は客がまだ少ない柳屋の座敷に座り、甘辛い鰊の煮物で酒を飲みながら、風よけに立て回された茣蓙の隙間から差す、明るい光を見ていた。
こんなに明るい光が差しているのに、もう又吉は居ない。なぜか三郎は、その時、それが不思議で仕方なかった。
三郎の他の客は、甚五郎爺さんが元のように床几に座って、手酌で酒を飲んでいるきりで、給仕の娘は釜の火を見ながら炭を中に投げていた。
三郎は陽の光をきらきらと返して輝く大川を睨みながら、酒を飲み、鰊をぼーっと食べ、親方に、「くれぐれも、お体にはお気をつけてくだせえ」と言って、柳屋を出た。
道へ出ると、そこを歩く者の声が三郎の耳にぼわーんとどこか遠くから届いた。
芝居小屋の噂や、商売の悩み、晩の菜の相談などをしながら、人々は三郎の傍を通り過ぎていく。誰一人として、又吉のことを喋る者は無い。
お天道様はいつも通りに空に収まっていて、雲は流れていくし、風も強く吹く。三郎は、悲しみや怒りにもしそれだけの力があれば、自分は風を止めるし、お天道様をどこかへ隠すだろうと思った。
でも、自分にそんな力は無い。
誰もが変わらず飯を食い、酒を飲み、働いては眠る。
それを横目に、大川の流れは変わらず、海へ海へと、流れ続けていた。
作品名:川の流れの果て(7)(終) 作家名:桐生甘太郎