川の流れの果て(7)(終)
店に又吉を知る者以外が居なくなってしまった頃に丁稚はやっと泣き止み、下を向きながら、ぽつりぽつりと話し出した。
「又吉さんは…とてもいいお方でした。真面目で、真面目過ぎるくらいで、それに、大変にいい男で、なかなか田舎言葉の直らない方だったもんで、うちに居た番頭さんに目を付けられて…始終番頭さんは又吉さんに言い掛かりを付けては、お小言を何時間も続けたり、時にはぶったり蹴ったりして…又吉さんはそれでも、「自分の商売の腕が良くないからだ」と一途に思い込んでまして、番頭さんを恨むこともなく…それなのに、又吉さんが番頭さんに謝るたんびに、番頭さんはその謝り方が癪に障る言い方だだのなんだのと言って、又吉さんを虐めました…」
留五郎は丁稚の新助の話を聞きながらぎりぎりと握り拳に力を入れ、与助は信じられないように悲しそうに目を見開き、三郎は目を伏せてじっと黙っていた。お花はぼうっとしたままで、新助の話を聞いているのかも分からなかった。
「ある時なんか、お店に大きな損が出まして、番頭さんのしくじりのせいのくせに、それを又吉さんのせいだと叱りつけて、顔の形が変わるくらい又吉さんを殴りつけて…それでも平然として「早く仕事に戻れ」と番頭さんは言いました…。それから、又吉さんへの虐めはそれでもまだ済みませんで、ごはんの時に又吉さんの膳を取り上げて中身を全部捨ててしまったり、「態度が良くなかったから飯抜きだ」と言って、たびたび又吉さんを店から追い出したりして…。それでも又吉さんは、番頭さん番頭さんと言って、仕事の事なんかを教えてもらいに行きますと、「お前のような愚図に教えても無駄だ」なんて言って何も教えないで、それなのに又吉さんの商売の腕が上がらないのを、全部又吉さんのせいにして、叱ったり、殴ったり…番頭さんは、本当に…本当に酷い人でした…。あたくしは何度となくそれを旦那様に言おう言おうとは思いましたが、番頭さんが怖くて…とうとう言えませんで…」
丁稚はそこでまた泣き出して涙を拭っていた。皆、それが落ち着くのを待ち、丁稚は二つ三つ鼻をすすると、元のように土間に目を落とした。
「去年の末でしたか、ある晩、又吉さんがお店を抜け出して、あたくしはてっきり又吉さんが逃げたんだと思いまして、ああこれで番頭さんから逃げられたんだと、ほっとしたところもあったんでございますが、あくる朝になって又吉さんは戻って来てしまいまして、そりゃあもう番頭さんに酷い目に遭わされて…あたくしが冬の夜に何をしていたのか聞きに行きましたところ、又吉さんはやっぱり「お店を抜けようかと思ってしまったのだ」と言ってから、このあたくしにまで謝りまして…でも、「自分に必要の無いお金を、本当に欲しい人にあげることができた」なんて言っておりまして、何のことか聞いても答えてくれませんでしたが、又吉さんが亡くなった後で又吉さんの部屋を調べて、葛籠の中に又吉さんが将来の商売のために貯めていたお金があるだろうと大旦那と番頭さんが葛篭を開け、出てきた手文庫を調べてみたのですが、そこには二通の遺書が入れられていただけで、他を探しても、着たきりの木綿なんかの他には何も出てきませんで…本当に一銭も無くなっていたんであります…又吉さんは、もう自分の店の事も諦めて、死ぬつもりで過ごしていたんでございます…!」
留五郎はぶるぶる震えて鬼のように眉間に皺を寄せながら、涙をしとどに流していた。与助も同じで、俯いてしくしくと泣き、着物の膝のところをぎゅっと握りしめていた。
「店の者に宛てた遺書の中に、もう一通の、吉兵衛親方様にお渡ししました遺書を持って行って欲しいのだと書いてありまして、「お世話になった飯屋の親方へのものだ」とありまして…あたくし達は又吉さんがいつもどこへ行くのかもまったく知りませんで…」
その時、飯屋に居た全員も、「そういえば自分達も、又吉がどこの店に奉公していたのかすら知らなかった」と初めて思い至った。
「又吉さんは…大晦日に姿が見えなくなりまして…翌朝、おかみさんが井戸から水を汲もうとした時に…」
その丁稚の言葉を聞き、留五郎が俯いて片手のひらで顔を覆い、ゆらゆらと首を振った。与助はしゃくり上げ始め、三郎は尚も堪えていた。お花は人形のように動かなかった。
「本当に…又吉さんにも、皆様にも、申し訳ないと思っております!皆様、どうぞお許し下さい!あたくしは近くに居ながら、何も出来なかったのでございます!申し訳ございません!申し訳ございません!」
丁稚の新助は土間にがばっと土下座をすると、吉兵衛に向かって何度も頭を下げた。吉兵衛はそれを慌てて起き上がらせる。
「…貴方が悪いのじゃありません。すべては、その番頭さんから起こった事です。貴方が気に病む事ではありません…」
吉兵衛はやっとのことでそう言ったのか、その目からは涙が溢れていた。
その時、床几に座っていたお花が土間にどさっと膝から崩れ落ち、その顔に人の心が戻った途端それはくしゃりと悲しみに歪むと、土へ顔を伏せてわっと泣き出した。
「ああ!ああ!ああ!なんてこと!なんてこと!なんてこと!」
わけも分からずお花は身も世もないほど泣き、与助が肩をさすろうとすると、お花は与助の顔も見ずに、強く振り払った。
お花の悲しみは、誰に癒してやることも出来ず、そして、涙を拭ってやれる者も、もうこの世には居なかった。
お花はほとんど前に倒れるようにして土間に突っ伏し、全身を震わせて、もがき苦しむように泣いていた。
吉兵衛はそんなお花の傍へ寄り、お花が泣き伏している土間に自分も座り込んで、一緒になって泣いた。
親子はそのままずっと泣き続け、誰が止めてやることも出来なかった。それを見て、留五郎達も、お花と吉兵衛の気持ちと、二人が又吉を何者としようとしていたのかを、深く悟った。
作品名:川の流れの果て(7)(終) 作家名:桐生甘太郎