短編集72(過去作品)
根拠の原点
根拠の原点
「ああ、昨日の課長の愚痴には参ったな」
思わずこちらも愚痴を零したくなる。
会社を定時に終え、帰ろうとした時であった。
「水谷くん、君、今日何か用事があるかね?」
「いえ、別に」
嫌な予感がした。
「それじゃあ、今日私に付き合わんかね」
「はあ」
あまりにも正直に答えすぎたことに後悔した。一人暮らしでこれといった用事もなく、帰ったからといって別にすることもない私は、いきなりの課長の誘いを断る術を持たなかった。というか根拠はないが、断る必要がないと感じていたのも事実だった。
もちろん待っている人がいてくれるわけでもなく、帰り着いて玄関を開けた時の真っ暗な部屋から漏れてくるひんやりとした空気が何とも寂しさを誘い、正直まっすぐ帰りたくないという気持ちがあるのも事実である。
本来なら呑み事の誘いには喜んで応じるのだろうが、こと課長の誘いだけは白羽の矢が当たることを恐れ、皆が敬遠している。
「あの人も愚痴さえなければ、いい上司なんだけどな」
これは同僚の一致した意見である。
「愚痴ってどんな?」
「家庭のことが多いんだ。俺なんか何度誘われたか……」
そう言ってため息をついたのは、同期入社で同じ課に配属された梶山だった。
入社して三年が経ったが、その間に彼は同じ課の女性と恋愛の末、この間めでたく結婚した。私からすれば羨ましい限りであるが、同じ思いをしているのは私だけではないようだった。
「やはり社内恋愛するとまわりがね……」
そう言っておどけて見せる。
どうやらかなり皆から冷やかされているようだ。皮肉の一つも言われているのだろう。しかしそれでも本人の苦笑いの中にはまんざらでもないという気持ちが表れている。決して嫌がっている様子ではないと思えるのは、付き合いが長いからかも知れない。
「だけど、課長だけは嫌だな」
そういえば、噂が立ち始めてからよく課長に誘われているようだった。その言葉に嘘のないことは次の日の彼の顔を見ればよく分かった。
最初の頃は、普通の付き合いをしていたようだが、回を追うごとにその顔に困惑の表情が表れるようになった。
「勘弁してほしいよ」
課長の呼ぶ声がするたび、ドキリとしているその後ろ姿から、そういう声が聞こえてきそうだ。首を捻りながら、顔は苦虫を噛み潰した表情になっているのが目に浮かぶ。
どちらかというと楽天的な梶山がそういう表情をするのだから、かなり陰湿な雰囲気になっているのではないかと思うのだが、そこまでは私の想像の及ぶところではない。
ひょっとして課長は、梶山の結婚相手に気があったのではないかという噂をちらほら耳にする。皆心の中で思いながら口にしていなかっただけで、今さら出てきた話題ではないい。それが出てきた背景には、それだけ梶山に対しての陰湿さが浮き彫りにされていたのだろう。
課長は会社の中で陰湿な態度は決してとることはなかった。あくまで仕事上の付き合いとして、知らない人が見れば“いい上司”なのだ。
だが、一歩会社を離れ、しかもそれが酒の席となると少し勝手が違うらしい。
「そりゃあ、ひどいもんだよ。ネチネチといやらしい」
そう話すときの梶山の顔はいかにも思い出すのも嫌だという思いが滲み出ている。
そんなことが何度続いたであろうか。
「水谷くん」
仕事が終わって、そう声を掛けられたらどうしよう……。そういう思いはあっても、断り方など考えていなかった。まさか自分にはないだろうという思いが心のどこかであったのかも知れない。
最近梶山がいう。
「課長もそろそろ俺に飽きてきたのかもよ。話題が尽きることが多いし、時々ボケっとしているのが目立つからね」
梶山の顔に残った疲労困憊の色が私を不安にさせる。
「よせやい。俺に来たりはしないだろうな?」
笑いながら答えたが、顔には怯えが走っていたであろう。すぐ顔に出るタイプらしい私の顔を見てニヤリと笑った梶山は、
「俺だって最初はそう思っていたさ。いい加減参ったよ。でももうこんな思いをしなくてもいいだろう。やっと俺にもこれからは幸せが待っているってことさ」
久しぶりに梶山の楽しそうな顔を見た。
「冗談はよしてくれ」
ここまで来れば、気持ち的にはかなり落ち込んでいる。今の精神状態であれば、必ず課長から声を掛けられるであろうことを予感し、その通りになることを頭に描いても不思議のないことだ。私の今までの人生がそうであったように……。
「やはり来たか」
目を瞑れば自分の表情が瞼の裏に浮かんでくる。
今の私は、ちょうどあの時の梶山と同じような表情になっていることだろう。いや、梶山の表情が頭に浮かんでくるだけに、さらに辛い表情をしているに違いない。
大なり小なり他の人にもあるのだろうが、自分の表情を思い浮かべようとしてもなかなか普段見ることのない自分の顔に浮かんだ表情を想像するなど難しいことだ。しかし私は以前から自然と浮かんでくる自分の表情に違和感はないのだ。
そんな私の表情から滲み出ている感情を知ってか知らずか、課長は上機嫌である。
「君とは一度呑んでみたいと思ってたんだよ」
白々しいと心の中で思いながら、笑顔で接しなければならない自分の立場が口惜しい。他の人にも同じことを言って近づいたのかと思うと嗚咽が走る。
「はあ、こんな私とですか?」
「ああ、君はいつも真面目に仕事をしてくれているから、なかなか誘いにくかったんだがね」
そう言えば私が感涙に咽ぶとでも思ったのだろうか。心の中で私は、
「何言ってやがる」
と思いながら顔は苦虫を噛み潰している。
そんな私の気持ちなど知る由もないであろう課長は、高笑いをしながら席へと戻っていった。
同じく今夜のことを考えている私と課長は、それぞれまったく違った感情を持ったまま夕方の業務終了時間を待つことになる。これほど業務終了時間が来るのを嫌ったことは今までにはなかったことだ。
会社の事務所に西日が差し込んでくる。普段は仕事の適度な緊張と充実感から少し哀愁
を含んだ疲れが身体を包むのだが、今日はそれどころではない。差し込んでくる日差しが長くなるにつれ、次第に辛くなってくるのだ。
会社の同僚はみんな知ってのことなのに、課長はなぜか秘密主義を取りたがる。
「水谷くん、会社が終わったらビルの裏にある喫茶店にいてくれたまえ。みんなに知られるのが嫌なものでね」
そう言いながら作っている笑顔に嫌悪感を覚えながら従わなければならない自分に嫌悪を感じていた。
私の表情を盗み見るようにチラチラと同僚の視線を感じる。哀れみを帯びたその表情は最近まで自分がしていたものだった。結局、同僚のそんな視線まで感じるものだから、業務終了時間までまともに顔を上げることができなかった。
「お疲れ様」
みんなそう言って帰っていく。私はなるべく目立たないように会社を出ようとするのだが、それでもまわりの目が気になるせいか、目立っている気がして仕方がない。
まるで忍び足の自分に情けなさを感じながら会社を出ると、そのまま“指定”の喫茶店に急行した。
作品名:短編集72(過去作品) 作家名:森本晃次