短編集72(過去作品)
夢だと思っていても、それは私の潜在意識が作り出したものには違いない。最近会っていない由香に会いたいと思いこそすれ、何の恨みもあろうはずのない由香の死を考えるなど信じられないことであった。起きた時に感じた気持ち悪いほどの汗は、そうした私の良心との葛藤が出させたものなのかも知れない。
さっきまでの私はそんな夢を見たことすら忘れていた。今でも鮮明に思い出すことができるにもかかわらず夢を見ていたことを忘れていたのは、意識的に忘れようとしていたからかも知れない。思い出したくない夢として頭の奥深くに封印していたものを、今目の前の由香の存在によってよみがえらせた。
それが果たして良かったのか悪かったのか、すぐにでもその答えが見つかる気がして仕方がない。
「君は本当に僕が知ってる由香さんなの?」
「どうして?」
聞いてはいけないことをいきなり聞いてしまったと思う私に対して驚く様子もなく、目の前にいる由香が尋ね返した。どうも私の質問を最初から予期していての聞き返しのような気がして仕方がない。
もし、「そうだよ」と言われればそのまま信じてしまうかも知れないとも思ったが、この間見た由香のイメージを思い出してしまった今となっては、目の前の女性を由香として認めるまでにはどうしても至らない。
「どうしてなのかは分からないんだけど、どうしても君が由香だとは思えない」
「そう」
彼女はそう言って下を向いてしまった。
しまったかな?
と思った瞬間、目の前の女性の肩が震え出した。最初は小刻みなので分からなかったが「ククク」という声が聞こえたのが先だったか、明らかに上下に動いている。
泣いているのかな?
いや、どうやらそうではないようだ。嗚咽にも似たその声に泣いているのかとも思えたが、急に顔を上げると大声で笑い出した。
「あははは、そうね確かに私はあなたの知ってる由香じゃないわ。でもどうしてあなたがそれを知ってるの?」
「知ってるというよりも、どうしても別人にしか思えないんだ。別に最近会ったわけでもないのに……」
「姉は死んだわ」
「えっ」
今までで一番衝撃を受けた言葉だった。さっき思い出した夢の内容が、もう一度よみがえる。
それにしても今目の前で話しているのは、由香の妹だったのか。そういえば、確か引っ越していく時、小さな妹がいたような気がする。小さいながら、じっと私をにらみつけているような表情が印象的だったのを思い出した。
「まさか……どうして?」
「誰かに殺されたの」
「殺された?」
「人に殺される覚えなどないはずの姉が殺されたの」
「……」
しばしの沈黙があった。いきなりの話で何が何だか分からないが、この間の夢の中での由香の断末魔の表情がよみがえってきて離れない。
「吉村さん、あなたは覚えてないでしょうね。でも私は覚えているわ」
「何を?」
「実は私があなたと会うのは初めてじゃないんですよ。ずっと以前から私はあなたを知っていたの」
「どうして?」
「言ったでしょ、橋村さんと知り合いだって」
「橋村がどうかしたの?」
「橋村さんは姉と恋人同士だった」
そういえば、大学時代まで結構連絡のあった橋村から連絡が来なくなって久しい。どこでどうしているのかと最初の頃は気になっていたが、最近ではそんなこともなくなった。
「あなたが、姉と橋村さんを結びつけたのよ」
「え? それはどういうこと?」
妹の言葉は少なからず私に衝撃を与えた。
「大学時代、あなたと橋村さんは、合コンで偶然、姉と会ってるのよ。そこであなたは橋村さんを姉に紹介したの」
そういえばそんなことがあったような気がする。あの時は、気に入った女性がいるからと、橋村に強引に頼まれたのを覚えている。彼女が私の好みでもあったのだが、あまりにも積極的な橋村に押し切られた。どこか懐かしいという思いが頭をよぎったが、その直感に間違いはなかった。
バサッ
妹はテーブルの上に一束の新聞を投げ出した。
「橋村という男はとんでもない男よ。姉はこの男のために……」
そう言って、新聞記事を私に示してくれた。
そこには一人の男の変死体という記事が載っている。記事には殺人事件に断定と書かれていて、どうやら青酸性の毒物による中毒死だということだ。
「まさか……」
妹の顔を穴の開くほど見つめた。さぞかしかっと見開いた目は少なからずも相手に恐怖感を与えているに違いないと思うのだが、妹は臆すことなく私を見つめている。
「僕が君の姉さんと会っている?」
「ええ、そう」
「姉さんがそう言ったのかい?」
「ええ、しかも一度だけじゃないって言ってたわ。何でもあなたに喫茶店に連れていってもらったんだって言ってたわ」
「楽しかったって言ってた?」
「ええ」
間違いなく由香とのことは夢だったはずだ。しかし由香にとっては夢でなかったことになるのだろうか? あの時の由香の断末魔の表情が私を悩ませる。あの時は何が起こったのか分からなかった。分からなかったから夢として片付けたのだし、夢でなければ私はこんなに平然と生活ができるわけもない。
たぶん、由香も夢を見ていたのだろう。ひょっとして同じ頃に見た夢ではないかと思っただけで、少し背中がむず痒く感じるが、その時に写った私の顔がどんなだったを想像してしまって何か変な気分になる。
まるで目の前に鏡があり、そこからまったく違う自分が出てきたような気分になっていた。
しかし彼女の夢に出てきた私は、たぶん本当の私だったかも知れない。もちろん今となっては確かめる術はないが、彼女の夢の記憶のようなものが私の中に残っているような気がして仕方がない。
「あなたの夢の中に姉が出てくることがあっても、私が出てきたことはないのね……」
妹の消え入りそうな声が聞こえた。顔は下を向いていて、小刻みに肩が震えているのが見える。先ほどじっと見つめたにもかかわらず、下を向いてしまった妹の顔を思い出そうとするのだが、なぜだかはっきりとしていない。
無意識に彼女の足元を見る。
「?」
部屋が暗いわけでもないのに、そこに長く伸びているはずの影がないではないか。
いや、よく見ると薄っすらとしているが、かすかに確認することができる。まさしく影が薄いのだ。
「私はずっとあなたのことを考えていた……」
声としてやっと聞こえる程度のものだったが、私にははっきりと聞こえた。口元から判断したのかも知れないが、声として聞こえたことも事実である。
「あなたは自己防衛のうまい人、ドッジボールでもそれが分かるわ。それがあなたの本能からの行動ですものね」
意味深な言葉である。しかしそれは言われるまでもなく分かっていたことだった。小学生時代いじめられっこだった私は、本能的に逃げることだけには長けていた。よく分かっていたことであるが、それからの人生が私の記憶から「いじめられっこ」の部分を封印していたのだ。
本能……という言葉を彼女の口から聞いて、改めて思い出したというのが本音である。
「でも、私はそんなあなたを……ずっと……」
もう声になっていない。みるみる血の気が引いていき、顔が青ざめてくるのがわかる。襲ってくる苦しみの中、何とか呼吸を整えながら声を振り絞っている。
作品名:短編集72(過去作品) 作家名:森本晃次