短編集72(過去作品)
深みのある返答であった。そのまま解釈すれば、私に対し不倫ができそうもない純情な人ということを強調したいように思えるが、一歩踏み込んで、不倫もできないような弱虫のあなたに私の心がわかるはずないわ……と言いたいとも見てとれる。
どこか投げやりな言葉に、私はしばし考えてしまった。
下手をすると由香の術中に嵌まったのでは? という余計な考えが、頭を掠める。
「というか、あなたには似合わない」
似合う似合わないの問題なのであろうか? それよりも由香が私の気持ちを見透かしているようで、少し気持ち悪くなった。よく言えば私のことを理解しようと、ずっと観察していてくれているのだろうが、その時の私にはそっちの考えが強かったのかも知れないように思う。
不倫という言葉に何かしらの罪悪めいたものを感じるのだが、好きになったものはしょうがないという考え方に立って考えればそれも一つの愛の形であり、不倫という言葉から察する妖艶さに魅惑さえ感じてしまう。しかも隠しておくべき秘密を臆面もなく語ろうとする由香の真意がどこにあるのか分かりかねている間に、すっかり妖艶な世界を想像してしまう自分に気が付いていた。
――何て綺麗なんだ――
目の前にいる由香への率直な思いである。
深刻な話を平然と話すのだが、頬はほんのり紅潮したかのように見え、大人の世界を知った女性が、時々見せる恥じらいを私は見逃さなかった。しかしそれが由香の術中であるのなら……とも感じたが、その時の私に彼女の術中から逃れるすべなど、すでになかったであろう。
「その人とは別れたの?」
「ええ」
そう言った彼女の表情は、まるで苦虫を噛み潰したような、何とも言えない表情をしていた。それが何を意味するのかその時の私に分かるはずもなく、てっきり相手の男性に対する惜別の想いが残っているのだろう、くらいにしか思えなかった。
下を向いてしまった由香が頭を上げるまでに、しばしの時間がかかった。
じっと見つめれば見つめるほど由香は視線を上げることができなくなるのではとも思ったが、見つめずにはいられなかった。
由香の不倫相手について思い描いてみた。彼女ほどの美人であれば、いい男でないと釣り合わない……。というよりも、いい男でないと不倫という行為を、由香に対し私自身が認められないような気がするのだ。
太くて逞しい腕にしな垂れるようにもたれかかる華奢な身体はしなやかで、まるで軟体動物のように軟らかい身体を持て余すかのように抱きしめられ、うっとりとしている由香の表情が思い浮かんだ。
その顔にほんのりと赤みがかってきて切なそうな表情を浮かべる時、男の腕にはさらなる力が加わる。
目と目で合図するかのごとく続けられる抱擁は、男にとって至高の悦びへと促される一ステップに過ぎないのかも知れない。だが女は果たしてそこまで思えるものなのか、私にはもちろん理解できない。
ここから先はあくまでも私の想像……、いや妄想にすぎなかった。
どちらからともなく声を掛ける。その声にはできる限りの優しさが込められていて、声を掛けられた方が、待っていたかのようにできる限りの優しさを込め、返答する。
それが合図であるかのごとく、さらに腕に力が加わり、どちらからともなく求めたキスに相手が応じる。
空気の入る隙間のないほどの熱い接吻は、お互いの欲望をぶつけながら繰り返される。次第に紅潮してくる顔は、呼吸ができないからだけでないことは分かり切っていることであった。
どちらからともなく苦しさからか、唇が離される。自然と漏れるため息交じりの声に、お互いが興奮を覚え、
「抱いて!」
由香のその言葉が合図となり、激しくお互いの身体を求め合う。
すでに衣類は脱ぎ捨てられ、生まれたままの姿で抱き合う様子を目の当たりにしたら絶対金縛りにあったかのごとく、動くことができないでいたであろう。
迸る汗が光る中、篭ったように聞こえる由香の口から聞こえる切ない声が静寂をぶち破った。
衣の擦れるような音が聞こえ、耐えられなくなったのか次第に切ない声が荒くなってくる。途切れ途切れのその声とともに、真っ暗な部屋の中で規則的に蠢くシルエットは、息遣いが荒くなるにつれ、動きが大きくなっていく。
大きなため息にも似た息遣いが聞こえたかと思うと、声の間隔は次第に狭まっていき、息苦しいほどの濃い空気が立ちこめる中、絶頂へと向かって二人は突き進む。
やがて訪れた絶頂は、糸を引くような声を部屋全体に行き渡らせ、男は由香の身体に欲望を形に表わしぶちまける。
やがてバタッと仰向けになった男は肩で息をしながら枕元のタバコに火をつけ、うまそうに飲んでいる。由香の不倫相手についてまったくの知識はないのだが、タバコを吸う男だという思いには、なぜか確信めいたものがあった。
男の厚い胸の中に顔を埋める由香、必死でしがみついているその姿には、相手を愛する気持ちとともに不安めいたものを感じているように見える。いや、不安を自分なりに打ち消そうとして必死にしがみついているのか、暗くて確認できないが小刻みに震えるその姿から怯えに近い表情をしていることが想像される。
それは不倫ということへの罪悪感から来るものだろうと私は思っている。万が一にもそうでないとしたら、という思いがないわけではないが、それを考えることは恐ろしいと感じたため考えないようにした。だがそれが無意識のうちであるということを自分が悟ったのは少し後になってからで、結果的には皮肉なことであった。
暗闇に目が次第に慣れていく。
しかしどうしたことだろう? 不倫相手の男の顔が確認できないのはある程度予想できたこととして、その場で恍惚の表情をしているはずの由香の顔が思い浮かばないのはなぜだろう?
他の男の胸の中にいる由香の表情など、想像したくもないから?
そうかも知れない。が、今目の前にいる女性と、想像の中の女性が似てはいるのだが別人のような気がしている。
どこが違うのかと言われれば、感覚的なことなので言葉にするのは困難だが、しいていえば今目の前にいる女性の表情から、男に抱かれて恍惚の表情を浮かべる女性というイメージがないのだ。
冷静沈着なその表情に媚びるような雰囲気は一切なく、逆にそれが男にとっての欲望を掻き立てる要素となりそうなのは、実に皮肉に思える。
しかし私にとって、少なくとも目の前の彼女に、必死で快感を我慢する表情が浮かびこそすれ、自分から男の胸に飛び込んでいくイメージなどまったく浮かばないのである。
「どうしたの? そんな目で」
私の表情に気付いた彼女が呟いた。
大きな瞳が印象的だった小学校時代の由香のイメージは、目の前の瞳からは想像できない。そうやって考えてみると顔の輪郭こそ変わりないとは言え、鼻や口元に記憶している形との違いが分かる気がしてきた。それほど、小学校時代の由香の表情を覚えている自分が気持ち悪いくらいである。
おや? 本当に小学校時代の由香しか知らないのだろうか?
そんな思いが頭にあった。だんだん最近会ったような気がしてきた。
あれはいつのことで、場所はどこだったんだろう?
作品名:短編集72(過去作品) 作家名:森本晃次