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短編集72(過去作品)

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 声のトーンは高かった。しかし、営業スマイルを含んだ声とはどうしても思えない。だからといって可愛らしい女性と思うのは早急な結論だった。小学生時代の由香のイメージとして、可愛らしいというより美人という思いの方が強かったのだ。
 私は靴音が吸収されるほどの静かな廊下を一歩一歩進みながら、そんなことを考えていた。
「会ってくれる?」
 と言った時の由香の声を思い出していた。あの時の声が由香の本当の声だと思いたいのだ。
 部屋の前でした深呼吸は、無意識とも思えるほど自然であった。静かな廊下に反響し、大きな声を出したのではないかと思うと、一瞬恥ずかしさを覚えた。
 そして、気がつけば、ドアをノックしていたのだ……。

 もしこれが夢であったなら……。
 今、私はこの部屋まで来た時のことを思い出しながら、ふっとそう思った。
 部屋に入り、由香を目の前にすると、ここまでやってきた経緯を無意識に思い出そうとしている自分に気が付いた。詳細に覚えているにもかかわらず、記憶としては希薄なものであったのがなぜだろう。部屋に入ってからのわずかな時間がそれまでの記憶を吸収し、希薄なものとするのであろうか?
「ワインはお好みですか?」
 由香はそういって、テーブルの上にあるワイングラスを両手に持ち、片方を私に渡そうとしている。その顔は小学生時代のかすかな記憶として残っている由香の表情からは想像もつかないものである。
「あ、どうもありがとう。ワインは好きな方なんですが、なかなか最近は口にする機会が減ってましてね」
 学生時代にはよく仲間とバーへ行ったものである。その時に必ず飲んだワインがあったが、就職してからは付き合いからか、どうしてもビールの方が主流になってきていた。ビールも嫌いではないのだが、やはり女性と甘いムードに浸るならワインがいいというのが私の自論だった。
「それはよかった。お口に合いますかどうか……」
 そう言いながらの表情には満面の笑みが浮かんでいる。私が満足することが分かっての笑顔なのか、ワインを口にするのが楽しみだ。
「本当は何かお食事も、と思ったんですが、ワインを楽しみたいのでは、と思いまして、軽いものしか用意しておりません……」
「いえいえ、これで結構ですよ」
 ワインを嗜む時に、他のものはあまり食べる方ではないという私のパターンと彼女の考え方が一緒だったのは、いちいち私を喜ばせてくれた。
「そう言っていただけると、光栄です」
 そういえば……
 以前にも、どこかで同じようなシチュエーションがあったような覚えがあるのだが……
 頭の中でそれを必死で思い出そうとして、確かに記憶の奥に存在することは分かっているのだが、肝心なところまで来ると靄がかかったようにはっきりとしなくなってしまう。   
 まるでドライアイスの煙が足元を覆ったような世界にいて、目を瞑れば、急に足場がなくなりいつ奈落の底へ叩き落されるか分からない状況の中を、歩かなければならないといった光景が浮かんでくるのである。そんな時の私は白装束に身を包み、死に装束を思わせるようであまり気持ちのよいのではない。
━━いつも見る夢だったな━━
 しかし思い出そうとすればするほど、靄がかかるのはなぜだろう? しかも、そこから先を思い出そうとすることは、そこまでの記憶すら希薄なものにしてしまうような効果があるようで、思い出そうとする気力さえ損なうもののようだ。
「私、前に不倫したことがあるんですよ」
「え?」
 ワインを片手に由香が言った。ソファーに腰掛け、手に持ったワイングラスを一旦テーブルの上に置いて、しみじみとした口調で語り始めた。
 私はというと、驚きのまま一瞬その場に立ち尽くしていた。不倫という言葉に驚いたというよりも、ソファーに腰を落ち着けてゆっくりとそのことについて語ろうとしている由香の態度にびっくりしたと言った方が正解かも知れない。
 ここは私も……と考え、同じくワイングラスをテーブルの上に置き、由香の対面に腰を下ろし、被りつきの体勢を示していた。
 あまりにも唐突であったため、一瞬我を忘れてしまったが彼女は何が言いたいのだろう?
「不倫とは、君にご主人がいて?」
「いいえ、妻子ある人を私が好きになったんですわ」
 結婚していてもおかしくない歳で、目の前にいる由香を見ていて感じる落ち着いた雰囲気は、既婚者のものであるという確信めいた感じが無きにしも非ずだった。
 最近、会社でよく話しをする女性には既婚者が多い。正社員を減らして、パートでまかなおうという風潮が世の常となってきている昨今、うちの会社もそれに倣っているため、どうしても主婦のパートタイマーが多いのも仕方のないことである。
 今まで同世代の独身女性しか眼中になかったが、気軽に話しかけてくるパートさんとの会話が弾むことに喜びを感じるようになっていった。気が利くというのが最大の理由であるが、それでいて気さくな雰囲気は同世代の独身女性にはないものがある。
 いや、同世代であってもそれが既婚者であれば気さくな雰囲気があり、少し他愛もない子供っぽい仕草であったとしても、大人っぽく感じるのはやはり気を遣ってくれているからであろう。
 しかもそれが無意識のうちであるからいいのであって、そこに意識が働いていることを悟ってしまうとあからさまな感じがして、却って胡散臭く思うに違いない。
 結婚願望が強くなってきたからかな?
 最近特にそう感じる。
 一人暮らしを始めて五年がたち、そろそろ寂しさを通り越した新しい出会いを求めたくなっているのかも知れない。
 しかしそれでも今まで不倫という言葉が頭を掠めたことはない。
 私には不倫など無縁の世界……。
 不倫イコール悪いことという思いを抱いているということは、裏を返せばそれだけ真剣に好きになった人がいないわけで、ただ気さくに話ができる人がまわりにいるだけである。
 好きな人がいないわけではない。ただ相手の家庭を壊してまで奪い取ろうなど考えたことのない私に、今の由香の言葉は想像を絶するものがあった。
 私と由香の性格の違い……。
 確かにそれは言える。相手を好きになる基準として、最初から主婦を除外するよう無意識に心掛けている私と違い、相手のことは二の次でとにかく自分が好きになることからすべてが始まってしまうのが由香の性格なのかも知れない。
 そんな目で見ている私の視線を、由香はどのように感じ取ったであろう? 最後のセリフを言ったあと、黙って下を向いてしまった由香の心境を図り知ろうと、さらにじっと見つめてしまった。
「不倫ってそんなに悪いことかしら?」
 私のセリフが待ちきれなかったのか、由香から先に言葉を返してきた。
「僕には経験がないから……」
 そう答えるのがやっとである。その言葉に間違いはなかった。ただ否定も肯定もしない私の答えを彼女自身ある程度の想像はしていたのではなかろうか。
「そうよね。あなたには不倫なんてできそうもないわ」
作品名:短編集72(過去作品) 作家名:森本晃次