短編集72(過去作品)
「小学校の時、一緒だった?」
「うん」
最初は、遠慮気味の話し方だったが、今の私の一言で声が一変、明るくなった。
「もちろん覚えてるよ」
自分でも優しい声をしていると思う。由香の明るい声が優しさを思い出させてくれたのだ。
「でも、どうしたんだい? よくここが分かったね」
「ええ、橋村くんに聞いたの」
そう言った時の由香の声に少し翳りのようなものが見えたが、すぐにはそれが何を意味するものなのか、分からなかった。
橋村というのは小学校の頃の一番の親友だ。気が合うというか、私と考え方が似たところがあって、話す内容にもいちいち納得できた。彼とはいわゆる腐れ縁で、高校を卒業するまで、なぜか一緒のクラスだった。高校受験の時も同じ学校を受けると聞いて妙に納得したのを思い出した。しかし都会の大学を受験した私と違い、橋村はそのまま地元の企業に就職したので、それからは次第に連絡を取り合う回数が減っていった。
距離以上に遠く感じるようになったのは、それまでがあまりにも親密すぎたからであろう。一旦間があいてしまうと、お互い遠慮からか、連絡がすっかり途絶えるようになってしまった。
「そういえば、最近連絡を取ってないけど、橋村は元気かな?」
由香と橋村の関係は、私にとってあまりにも意外だった。
それぞれ私にとって思い入れのある二人だけに、どんな関係かは分からないが、私の知らないところで人知れず関係があったなど、あまり面白いものではない。しかもそれが男と女ということであればなおさらである。
「ええ……」
「ん?」
明らかに由香の声のトーンが下がった。まるで聞いてはいけないことを聞いてしまったかのようで妙な気分になったが、聞かないではいられないのも事実だ。
「橋村と何かあったの?」
黙りこんでしまった由香だったが、小刻みに震えているのが電話口からでも分かるほどの息遣いで、少なからず由香にとって何かあったと考えざるおえない。
それでもすぐに気を取り直した由香は、
「ううん、何もないわ」
と言ったその声のトーンは確かに上がっていた。
何となく釈然としなかったが、何しろ顔の見えない電話口での会話なので、ほとんどの様子は勘でしかない。
「ところで、今日は?」
「ええ、久しぶりなもので、あなたに会いたいと思って電話しましたの」
電話の声からどんな女性であるか、私なりに想像を巡らせてみた。
声のトーンは普通の女性から考えても高いだろう。しかし声を小さくした時にハスキーさが出ていることから、少しセクシーな感じも受ける。
身長は百六十センチよりも少しあって痩せ型という雰囲気ではなく、どちらかというと幼児体型を想像してしまう。「綺麗」というより「かわいい」といった雰囲気が目を瞑ると瞼の奥に浮かんでくるのである。
電話で話している間、頭の中に小学校時代の由香の雰囲気はなかった。電話で話している女性の声と、あまりにもかけ離れているからであろう。必死で電話口の声から相手を想像しようとする自分がいるだけである。
どちらかというと、美人というよりも「かわいらしい」タイプの女性が好きな私にとって、由香の声はまさしく“合格”だった。少し贔屓目かな? とも思ってしまうが、想像するだけですぐにでも会いたくなるほどである。そんな彼女が会いたいと言って電話を掛けてきたのだ。まさしく願ったり叶ったりである。
そういえば、就職してからというもの、なかなか女性と知り合う機会がなかった。
会社にいないこともないが、どうしても仕事が絡んでくると大っぴらに話し掛けにくい。
それにどうしても会社の事務員は女性同士で輪を作ってしまうので、そこに入っていくということは、少なからずも女性陣に敵意を持たれるのではという思いが先行してしまっても仕方のないことだった。
いや、何よりも付き合い出した女性が、回りの女性たちから白い目で見られることを嫌っているという思いもある。本当にそんな状態でまともに付き合えるのだろうか? 事務員たちを見ているかぎり、不可能に近い思いがある。
「いやあ、うれしいよ」
本心から、そう思った。小学校時代とはいえ、気になっていた女性である。元々、小学生の頃は異性を異性として意識していなかったので気がつかなかったが、後から思えばあれが間違いなく私にとっての初恋だった。
初恋は実ることのない、青春の苦い思い出━━
それが私を含め、友人たちとの一致した見解だった。そもそも何をして初恋というか、ということすら分からないくらいなので、果たしてそれを失恋と言えるかは自分の中でも見解が別れるところである。
「会ってくれる?」
「もちろんだよ」
由香の不安そうな声に対し、はっきりとした口調で答えた私の耳に、電話口から安堵のため息のようなものが聞こえた。
「よかった。断られたらどうしようかと思った」
「断りなんかしないよ、わざわざ掛けてきてくれたんだからね」
由香の声は大げさにも聞こえたが、それだけ私に会いたかった証拠だろうと感じ、男冥利に尽きる思いである。
彼女は泊まっているホテルに来てほしいという。普通であれば喫茶店などで待ち合わせるものと思っていた私はびっくりしたが、ホテルと聞いた瞬間、頭の中に浮かんできた由香のイメージが頭から離れず、すぐにオーケーしたのだった。
贅沢とも思えるような大きなホテル。このあたりで知らない人はいないくらいの立派なホテルで、自分とは縁のないところという思いが強かったところである。
入り口の自動ドアから先はまったくの別世界、高い天井からぶら下がっている大きなシャンデリアが広いロビーを明るく照らしている。
しばらくあたりを見渡しながら天井を眺めると、コツコツと革靴の乾いた音が天井に響いているのを感じる。人の声のざわつきもそれなりに感じるが、嫌という思いがあるわけではない。すべて部屋の広さに吸収され、私には革靴の音だけが印象として残っている。
さすがに高級ホテル、美人を揃えている。横目でフロントを見ながら、エレベーターへと向かった。中が広いのも当たり前といえば当たり前だが、ガラスの筒状になっているため表を通る車などあっという間に豆粒状になっていった。まあ、密室での昇降状態を味わうよりは気がまぎれていいかも知れない。
「ピンポーン」
エレベーターの速度が速いため、耳の奥にツーンとしたものが残ってしまい、到着の音が篭って聞こえた。
生唾を飲み込み、何とか鼓膜を正常に戻したが、それでもエレベーターから降りてからの踊り場は、静寂すぎてまだ耳に違和感が残っている。
真っ赤な絨毯が敷き詰められ、一回ロビーと違い、革靴の音が響くようなことはなかった。
九○八号室。
メモっておいた手帳を取り出し、再度確認をした。由香の泊まっているという部屋だ。
すでに由香と同じフロアーにいるんだ。
そう感じただけで、胸が高鳴った。あまりにも久しぶりであったため、ここに来るまでピンと来なかったというのが正直なところだが、近づいてくるにしたがって由香への思いが頭の中で出来上がっていくのを感じていた。
いったいどんな女性になっているんだろう?
作品名:短編集72(過去作品) 作家名:森本晃次