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短編集72(過去作品)

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 部屋の入り口の狭さとは裏腹に、想像していたより広い空間が私の目の前に飛び込んできた。ソファーにテーブルといった応接セットが部屋の隅に位置していて実にもったいないと思えるほどの贅沢な造りとなっている。さらに奥にも部屋があるようで、そこは言わずと知れたベッドルームになっているようだ。
 一通り見渡した時の部屋に対する私の思いをどう判断したのか、由香は満足げに私を見つめている。そこに少なからずの勘違いがあることは分かっていた。
「それにしても、なんとまあ」
 これが私の第一声だった。半分は呆れていた私に対してさらに満面な笑みを浮かべている由香は、
「すごいでしょう? 私も初めてなの、こんな贅沢な部屋を借りるのは」
 そう言いながら立ち止まって部屋全体を見渡している私を尻目に、奥のソファーへと腰掛けた。
 部屋の奥に有線放送のスイッチがあるのだろう。心地よいメロデイーはピアノの旋律に乗ったシンフォニーで、部屋全体に甘い雰囲気と心に余裕のようなものを与えてくれる。普段よく聴く曲なのだが、作者、曲名ともはっきりと思い出すことはできないでいた。
 こんな時は、ワインか何かで酔ってみたいと思っていたのだが、どうやら気持ちが通じたのだろうか? テーブル上にワイングラスが二つ置かれ、それにワインカラーもまぶしい液体が、トクトクと注ぎ込まれている。
 室内に流れている曲といい、ワイングラスに注がれているワインといい、このシチュエーションの中で最高と思える演出に私は思わず満足感に浸っていた。少なくとも由香が私と同じ感性を持った大人の女性になっていたことへの満足感である。
「ねえ、覚えてる? 小学校の頃の体育の授業」
 寝起きなのか、何となく鼻にかかったようなハスキーボイスが色っぽく感じる。まるで猫のように身体をくねらせているように見えるのも、気のせいではないようだ。
「体育の授業?」
 小学校の頃の体育の授業というと、私のもっとも思い出したくないものだった。運動神経なるものを持ち合わせていない私にとって、体育の授業ほど苦痛で悩みのタネはなかったのだ。しかも冬でも半ズボンと、寒がりの私にとってそれはまさに地獄だった。「風の強い日にブルブル震えながら小さくなっていた」というのが、小学校時代の体育の授業での唯一の思い出である。
「そうね、覚えていないかもね。でも私はあなたに感謝してるのよ」
「どういうこと?」
「ドッチボールでいつも私をかばってくれた」
 そう言われても一瞬頭に浮かばなかったが、確かにそうかも知れない。いつも逃げ回っていた私だったが、由香に向かってくるボールにだけは反応していたことを思い出した。
「身体が勝手に反応しただけだよ」
 本音である。無意識というのは恐ろしいもので、その時由香を意識していたわけでもなかったのだ。
「ううん、私には分かっていたのよ。あなたがいつも必死で私を守っていてくれているってね」
 ハスキーな声ではあるが、口調ははっきりとしている。
 最近私は本能という言葉を信じるようになった。それがいいことなのか悪いことなのかは別にして、気がつけば行動している。だが、そういう時に限って結果がいい方に出ることが多く、それを運がいいということで最初片付けていたが、考えてみれば最初からいい方向へ向かうことを無意識に分かっての行動だとするならば、それを本能的な行動と言わず何と言えばいいのだろうか。
 都合よく考え過ぎであろうか?
 確かにそうかも知れない。しかしそれが本当にいい方へ向かう行動であるならば、そう信じることが大切なのかも知れない。
 ひょっとして、今が人生の中で一番楽しい時期ではないだろうか? そう思っている矢先であった。由香から突然の電話をもらったのは……。

 普段どおり会社が終わり、帰りに夕食の足しにと、コンビニでいつものように弁当を買い帰宅した。私にとっては判で押したような毎日の行動で何ら変化のないものなのだが、
 季節感だけはそうもいかない、最近は家に着く頃にはもう真っ暗になっていた。
 マンションの玄関を開けてすぐの踊り場に郵便受けが並んでいるが、電気がついていないと真っ暗で、しっかり鍵を合わせるのにも苦労してしまうこの時期が一番いやだ。
 午後五時に仕事が終わり、六時前には帰宅できるのだから文句も言えないが、部屋で待っている人でもいればいざ知らず、寝るまでの時間どう過ごすか帰宅の間に考えておかないとかなりつらいものがある。
 いつものことではあるが、特にこの時期になると部屋に入るのが無性に寂しい。真っ暗な入り口から見てほんのりと明るく見える光は、カーテン越しとはいえ部屋に入り込んでくる西日であった。それはあまり強くなくかすかではあるが、真っ暗なところから見ているため、それなりの明るさを感じる。ベージュっぽい色のカーテンをつけているため、色がいかにも夕日を思わせる。しばし黄昏にため息をつきたくなるような気分にさせられるのだ。
「ふ〜っ」
 それは、やっと帰ってきたという思いからなのか、西日への黄昏のためなのか、自分でも分からないうちに出てくる約束されたため息である。
 荷物を部屋に投げ出すように置くと、そこから先はいつも同様「ながら作業」となる。テレビのスイッチを入れ、お湯を沸かしながら服を着替える。別に予定があるわけでもないのに急いで済ませてしまおうと思うのは、私の性格を叙実に表わしていた。早く落ち着きたいと思うのは当然のこと、それより、ゆっくりやることでそれ以降の時間を却って長く感じさせてしまうような気がしてならないからである。また、テキパキと動くことで身体が早く温まるということも重要なことだった。
「プルプルプル……」
 電話が鳴ったのは、そんな時であった。
 テレビの音が部屋を支配していたにもかかわらず、それほど大きな音ではないはずの電話機の呼び出し音が耳に響いたのはなぜなのだろうか?
 確かにいきなりではあったが、受話器を取ろうとした瞬間「やっぱり」と、まるで掛かってくることを予期していたかのような思いが頭を巡ったのも事実である。
「もしもし、吉村です」
 相手の息遣いのようなものが聞こえた。何かを話そうとしているのだが、しばらく荒い息遣いとなって現れているのが手に取るように分かったが、最初はそれが女性のものだとは判断できなかった。
「あの……」
 第一声は、消え入りそうで蚊の鳴くような声が耳に入ってきたが、息遣いに神経を集中させていたので、十分第一声を確認することができた。
 もちろん声に聞き覚えなどないし、ましてや女性から掛かってくるなどなかった今までの私だったので信じられないことであった。
「覚えてますか?」
「?」
 声にならなかったのは、頭の中がフル回転していたからだ。必死で考えているのだが、記憶が平行線である以上、決して繋がることはない。
「私、菅原由香です」
 彼女が氏名を名乗っても、一瞬分からなかった。それは名前を覚えていないからではなく、絶対にかかってくるはずないものとして、もう一本の平行線上にある名前だと思っていたからだ。しかし、もう一方の平行線上で一番記憶に近いところにある名前なのは事実で、すぐに記憶の糸を繋げることができた。
作品名:短編集72(過去作品) 作家名:森本晃次