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短編集72(過去作品)

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 歓喜の声ではない。いつもの泰恵の歓喜の声より明らかに低く、それでいて切なさを感じるのだ。どうやら普段より敏感になっていて、それを何とか堪えようとするが、それがままならないように感じる。それだけに男としての機能をくすぐられ、私としても普段より敏感になっていたかも知れない。何よりも普段見たことのない泰恵の醜態を、今私は垣間見てると思っただけで、異様な反応をしてしまうのだ。
 抱きしめる腕に力が入る。
「いや」
 言葉とは裏腹に、一切の抵抗をしようとしない泰恵に対し、私もいつもの私ではなくなっていた。
 ここからは速攻あるのみである。彼女もそれを求めていると思っただけで、甘いほのかな香りの中に柑橘系の香りが混ざってくる。それは私にとってのまさに媚薬で、貪るように求めた身体をベッドへと運んだ。
 そこから先は甘い空気が次第に濃厚になっていき、迸る汗がさらにまわりの空気を重々しく感じさせる。激しく求め合った中で私はそれを感じたが、彼女が同じ思いでいるかどうかは分からない。
 その時、私は今までに感じたことのないほど泰恵に対し愛おしさを感じ、それがいずれやってくる別れを信じさせない強い力となることに、まだ気がついていなかった。
――そういえば、血液が抜けていく時の恍惚感は、泰恵の中に放たれた私の想いに似ている――
 しかしそれはいつもの感覚ではなく、最後に彼女と過ごしたあの時に感じたものだった。普段と違う快感だと思い、さらにいずれ同じような快感に見舞われるような予感があったのだが、それが今訪れているのだ。
 身体から放たれた時、しばしの快感に酔いしれた後は、言い知れない倦怠感が身体を襲う時がある。いや、普段がそうであり、最後に会った時は、その倦怠感を感じることもなく、ただ永遠に続くのではと思ってしまいそうになったくらい身体を貫いた快感に酔いしれるだけだった。
 糸を引くような快感がゆっくりと醒めてくる時も、我に返る時も、けだるさは感じなかったのだ。
 身体全体が火照ってきて、背中を中心に汗が滲んでいることに気付いていた。
 彼女との最後の夜を思い出しながら、血液が抜かれているという現実を頭の中は理解している。舌先に残った痺れは相変わらずで、永久に消えなかったらどうしようなどという根拠のない不安が付きまとっていた。今まで何度も献血を繰り返し、同じ思いをしてきたにもかかわらずである。
 さっきまであれだけ重たかった瞼を今はしっかり開けることができる。よほど眠かったのかとも思ったが、それよりも夢の中で泰恵のことを思い出すために重かったのだと、自分なりに納得している。
 泰恵とは“あの夜”を最後に会っていない。別れ話を持ちかけられたのは、その夜のうちであった。
「ごめんなさい。私はあなたとはもう付き合えない」
「どうして?」
「わがままな女と思って諦めてください。あなたには私は必要ないわ」
「それは、他に好きな人ができたということ?」
「ええ、その人には私が必要なの」
 その時はそれ以上の言葉をお互い発しなかった。何を言っても堂々巡りになるのが分かっていたからであろう。
 出掛かった言葉を押し殺し、喉の奥に押し返す。私もその時彼女の真意がどこにあるか分からず、最後は戻ってきてくれるだろうと、たかをくくっていた。
 しかし泰恵の思いはかなり強いものであるとその後、嫌というほど思い知らされた。
 彼女の言う“必要とする男”、それはどうやら啓介のことであった。自分の愛する女を友人に“寝取られた”形になってしまったのである。
 最初こそ怒りのため、体中の血液が逆流するのが分かり、噴出してくる汗を感じていたが、冷静になるまでには、それほど時間が掛からなかった。ただ、身体は正直なのか、冷静になってからの数日間というもの、原因不明の高熱にうなされていた。
 高熱であればあるほど、意識は朦朧とし、不思議なことに苦痛はあまりなかった。いや、恍惚状態といっても過言ではないくらいである。熱の下がりかけの方がいかにも気分が悪く、うなされていたことを思い出すのだった。
 泰恵が私と啓介を両天秤にかけていたというのか?
 そういえば、最近啓介から連絡もないし、泰恵の様子にも少しぎこちなさがあった。気付いていなかったわけではないが、まさかそんなこととは知る由もなく、まるでピエロのような自分が腹立たしくて、言葉も出ない。
 しかし、なぜだろう? 泰恵に対して怒りがこみ上げてこない。啓介に対しても同じで、啓介の場合は、最近の彼を知らないだけに怒りがこみ上げてこないのかとも思ったが、そうではない。
「君が羨ましい」
 と言ったあの言葉、あれが耳に残って離れない。
 自分のために何かできることが明確になっていて、それで人生を楽しんでいる私を羨ましがっていたのだ。
 正直、優越感を感じていた。啓介に対して哀れみに近いものを感じていたのも事実で、彼が私のそんな思いを知っていたかどうかは分からないが、今となって思えば自惚れていた自分が情けない。
――大切なものを失ってしまった――
 と思う反面、しかしそれでもサバサバしたものを感じるのはなぜだろう?
 負け惜しみでも何でもない。ひょっとして最後には私のところへ戻ってくるのでは、という思いが心のどこかにあるような気がして仕方がない。
 血液が抜かれていく恍惚の中で私は泰恵の白い肌を思い浮かべていた。
 とろけるような白い肌が私に纏わり着いてくる。あれが最後だったなど、どうしても信じられず、私の身体に永遠に刻印されることを信じて疑わない。
 頭の中で血が噴出しているのが浮かんできた。血管を通る真っ赤な鮮血、そのイメージを遥かに超越したその思いは、まさしく修羅場を見ているようだ。
――最近見たあの光景――
 泰恵の歪んだ顔が目に浮かぶ、断末魔の叫び声が耳に響いて、耳鳴りを起こしている。透き通るような白い肌が真っ赤に染まり、まるで火山口から流れ出る溶岩のように、さぞかし熱く煮えたぎっているに違いない。
――ああ、何と言うことだ――
 私の指は真っ赤に染まり、手に持ったナイフからは真っ赤な液体が零れ落ちている。そしてなぜか泰恵の手首から先が切断されている。無意識のうちに身元を隠そうと自分でしたのかも知れない。
――これは夢?――
 いや、れっきとした事実であることは誰よりも私が知っていることだ。もちろん、他の誰にも知られていないのだが……。
――おや?――
 さっきまで真っ赤だった血が、緑色に変化していくのに気がついた。ゾッとするような緑色に私の視線は切断された手首に移っていた。
――なんということだ――
 泰恵の切断されたはずの手首が映えてくるではないか。それは緑色に染まった手首でもはや人間のものではない。
 爬虫類? そう、トカゲのものである。
 私は額から流れ落ちる汗の気持ち悪さを感じながら、ただ黙ってその様子を見ているしかなかったのだ……。
 手首の圧迫感が取れてきたころであろうか。
「終わりましたよ。お疲れ様でした」
 看護婦さんの声が聞こえた。どうやら献血終了のようである。
「十分、水分を摂って、ゆっくりとした気分でお帰りくださいね」
 受付を済ませ、そう言われてセンターを出た。
作品名:短編集72(過去作品) 作家名:森本晃次