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短編集72(過去作品)

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 確かに泰恵が別れ話をちらつかせたことはあった。しかしそれは一瞬のことで、それ以降、彼女にそんな素振りは見られない。彼女の一言一言が何となく他人事のように感じられたのも、私がちょうど鬱に入りかけた時で、今から思えば考えすぎだったと思えば、そう思えないでもない。元々彼女はあっさりしたタイプの性格であることに、やっと気がついただけのことである。
 腕の熱さが少し辛く感じてきた頃だった。
 看護婦さんを呼ぼうとしたその時である、熱さのために感覚が麻痺していた腕がスーっと気持ちよくなってきた。どうやら血液が抜かれていく番のようである。
 意識が薄れていくのが分かる。そんな中、またしても誰かの視線を感じた。目の前にいるのだが、視線を感じる時はいつも意識がなくなりかけの視力が皆無に近い状態なので、それがどんな人なのか顔を確認することはできない。しかし、その人が私を見つめる表情には一点の曇りなどないことだけは分かっている。
 普通、一旦目が覚めてしまうと、すぐに眠りに入ってもまず同じ夢を見ることはない。特に最初の夢が中途半端な終わり方であればあるほど、再度見てみたいという気持ちが強くなりすぎ、却ってそれがアダになってしまうことが往々にしてある……。
 いつものように家から駅までの出勤路を歩いている。人がいつもより少ない。木枯らしが吹く中、コートの衿を立てながら背中を丸め歩いているサラリーマンの姿を見かけるが、かくゆう私もその中の一人だった。
 あまりにもマンネリ化した朝の出勤、いつも同じ光景を見慣れすぎて、少しくらい状況が変っても分からないだろうという思いが、いつも頭の中にある。
 いつも曲がる角で、急に知らない風景が目の前に広がっていたとして、果たして気がつくだろうか? そんなことを考えたこともあった。いや、今も考えている。
 そんな思いを感じているからであろうか?
「あれ?」
 懐かしい匂いを最初に感じた。子供の頃に戻ったような感覚があるのは、それが子供の頃には、どこからでも匂っていた香りのする果実だったからである。
――いちじくの香り――
 季節的に合うかどうかなどというとりとめのない疑問が、なぜか頭の中にあった。最初に感じたのはそれだけである。
 いちじくの香りを感じたのは一瞬のことであった。
 泰恵と一緒に出勤した時、そのいちじくの香りがしたことがあった。
「私いちじくの匂いが好きなの」
「どうして?」
「子供の頃を思い出すのよ」
「それは僕だって同じだよ」
 そう言って微笑みかける私に、泰恵は答えようとせず、前を見てただ歩いていた。子供の頃を思い出していたのだろう。私も前を見て歩き始めると子供の頃の思い出がよみがえってくるのを感じていた。
 組んでいた腕に少しずつ力が込められている。
 頬に当たる風が心地よく感じられる時期だった。二人とも違う子供時代を過ごしているので、考えていることはまったく違うはずなのだが、思い起こした子供時代から泰恵のことを知っていたような気がしてきた。
 私には泰恵が同じ思いでいるような気がして仕方がない。その証拠が腕に込められた力であって、上着を通してでも感じられる腕の温かさである。小刻みな震えを感じ、思わず腰を抱きしめてしまったくらいだ。
「もう一度、子供の頃に戻りたい?」
 泰恵が聞いてきた。
「君は?」
 泰恵が聞いてこなければ、私の方から聞いてみたい質問であった。
「ううん、今のままでいい。でも」
「ん? でも?」
「あなたとは子供の頃からの知り合いだったような気がするわ」
 私もまったく同じことを考えていた。
 しかし、この返事の前に少しだけ間合いがあったのが少し気になった。ひょっとしてそれ以外に何か言いたいことがあったのではとも感じたが、追求するまでには至らない。熱い視線をこちらに向けていた彼女がすぐに正面を向きかえったからである。
「そうだね」
 軽く返事をするに留まった。
「子供の頃に戻りたいとは思わないかな? 今までの自分を失いたくないって気持ちも強いしね」
 やり直したいと思うこともある。今の生活に満足しているわけではない。しかし、今までの積み重ねがリセットされることの方が私にとっては辛いことだ。今までの積み重ねの中でいろいろな出会いがあったのだし、泰恵との出会いもその一つである。
 子供の頃というと、親友だった啓介のことを思い出す。営業で得意先まわりをしていた時、偶然に出くわした。
「あれ? 君は」
 最初に気がついたのは啓介の方だった。声を掛けられてもしばらく分からなかった私に対して、
「俺だよ、俺。山本啓介だよ。中学、高校と一緒だったじゃないか。忘れちゃったの?」
「ああ」
 正直名前を言われるまで分からなかった。黒いふちのあるメガネを掛け、片側から流すような髪型で、一見秀才タイプの目立たないやつだった。そういうイメージは私だけでなく、皆が思っていたことだろう。
 今目の前に現れた山本啓介と名乗る男に、そんなイメージはない。コンタクトにしたのかトレードマークのメガネもなく、髪も少し茶色掛かってウェーブの効かせた眺めの髪はミュージシャンを思わせた。
「いやあ、分からないのも無理ないよな。あの頃の俺と言ったら」
 頭のてっぺんから足の先まで見つめている私に、そう言って啓介は微笑みかける。
「変れば変るものだな」
「そういう君はまったく変ってないね」
 イメージチェンジが嫌なわけではない。実際、大学時代髪型を変えてみたこともあったが、結局気分転換にしかならず、それならばと、元の髪型に戻した。
「やっぱり、お前はそれが似合ってるよ」
 毒舌だが、親友の友達に言われると複雑な心境だ。苦笑いするしかなかった。
 鏡を見ても、
――やはり、これが自分なんだ――
 と不思議な納得感があった。
 それにしても変れば変るものだ。歳月の重さを今さらながらに感じていたっけ。
「まあね、でも人それぞれさ」
「そりゃ、そうだがね」
 久しぶりに会った友人とそのまま別れるのも忍びなく、仕事が終わってから待ち合わせた。いつもの行きつけの喫茶店があるということで、啓介が連れて行ってくれたのだ。
 レンガ造りの綺麗な喫茶店で、表までもコーヒーの酸味の効いた香りが漂ってきて、なかなか洒落た店を知ってるんだと、感心させられた。
 カウンターにいる同い年くらいの女の子と二言三言軽く挨拶を交わすと私を奥のテーブルへと招いてくれた。
「最近、どうだい?」
 座ってコーヒーを注文すると、啓介が聞いてきた。
「どうだいって、えらく大雑把な質問だね」
 昔から啓介にはそういうところがあった。これも彼流の挨拶なのかも知れない。私が苦笑していると、
「俺の方はさっぱりだね。まあ、可もなく不可もなくってところかな?」
 私の苦笑を、啓介はさらに苦笑で返してきた。
「平凡な生活ってこと?」
「まあね、でも、最近つくづくそれが幸せなのかもって思うことがあるよ」
「そうか」
 悟ったような口調の啓介に対し、私も納得し何度も頷いていた。
「君は充実した毎日を送っているのかい?」
「そうだね、一応写真の趣味があるから、最近一番時間を掛けているかな?」
作品名:短編集72(過去作品) 作家名:森本晃次