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短編集72(過去作品)

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 会話らしい会話のないまま過ごした喫茶店を出る頃には、すでにあたりは真っ暗になっていた。凍りつくような時間を果てしなく過ごしたような気がしていたのに、表に出た瞬間、あっという間だったような気がしてくるから不思議だった。
――やはり夢なのかな――
 そう感じるのも無理のないほど、喫茶店での時間が遥か以前の出来事のように感じられた。舌先に残ったコーヒーの味を感じながら、夜の街に繰り出した二人は、傍目から見れば普通のカップルである。私の左腕には泰恵の右腕が忍び込んでいて、いつものように左腕に泰恵の右胸を感じていた。
 その日の二人が愛し合うまでに時間は掛からなかった。私としても泰恵の心境を一刻も早く知りたい思いでいっぱいで、言葉でいくら訊ねても埒が明かないことは分かっていた。
 だからといって身体に訴えて、それで何が分かるのかとも思ったのだが、少なくとも会話も凍ったまま、気まずい雰囲気のままいるより余程いいはずである。
 泰恵の身体は正直だった。さっきの会話の真意を確かめたいという本来の意図を忘れてしまっていたほど自然に私を受け入れてくれた。細部にわたっての仕草一つ一つが紛れもなく泰恵であった。
 もう人を真剣に愛することなどないだろうと思っていたところへ現れた泰恵との毎日がマンネリ化したものだったとは思えない。最初こそ、以前付き合っていた女性の面影が頭の中にこびりついていて、見えていなかった泰恵の本当の姿に気付いたのはいつ頃だったのだろう。最近であることは間違いない。
「あなた、最近変ったわね」
「そんなことないよ」
 泰恵のそんな言葉がきっかけだったような気がする。
 フッと我に返ったような気がして、血の気が引いていくような気がしてきたくらいだ。泰恵は勘の鋭い女性である。私のことは何でも見抜いていて、食事の好みはおろか、女性の好みまで、最初の数日で見抜かれてしまった。
「あなたが単純なのよ」
 そう言って笑い飛ばしていた。学生時代に嫌というほど聞かされたセリフであるが、泰恵に言われると却って新鮮味を感じる。
――やはり――
 その言葉には重みと同時に、彼女のさりげなさを感じたような気がした。
 泰恵に男の影?
 もちろん、それは誤解であって、すぐに疑惑は解けたのだが、いつも私のそばにいてくれて安らぎと同時に“安全さ”を感じさせてくれた泰恵に感じた初めての不信感である。
 一緒にいる時は当たり前だったが、普段一人でいる時間は自分のことだけを考えていたいタイプの私は、あまり泰恵のことを考えることはなかった。だが、それも“安心感”があってのことで、それが一度崩れると気が気ではなくなってしまう。
 私にとって短所かも知れない。
 ただ苦しいだけである。
 相手のことを想って、事情を確かめる勇気もなく、何の根拠もない中で苦しむ。考えれば考えるほどバカバカしいのだが、バカバカしいと思っていなければ自分が辛いだけなのである。
 隠し事が嫌いで何でも話さないと気がすまない私は、後になってそのことを泰恵に話した。
「ははは、あなたらしいわね」
 そう言って一蹴されたが、その言葉に厭味は感じられなかった。
――やはり彼女には、私のことがすべてお見通しなんだ――
 思わず苦笑いをした私に、泰恵は優しく微笑みかけてくれる。
 すべてが静かにさりげなく過ぎ、爽やかな風を呼びこんでくるようだ。
 甘い空気の匂いが漂う。春の花の香りに乗って飛んでいる蝶の羽になったような気持ちがする。
 それが泰恵との毎日だったのだ。
 泰恵は私にとってなくてはならない存在、そして泰恵にとっても私はなくてはならない存在であった。少なくとも、別れを告げられる前までは間違いなく、私の中で爽やかな気持ちは今でも続いているのだ。
 確かに私に別れを告げた時の泰恵の表情は真剣だった。いくら鈍感な私でも、それくらいは分かるくらいの付き合いを重ねてきたつもりである。
 しかし今だに彼女の真意が分からない。真剣であればあるほど、まるで他人事のように思ってしまうのは、それだけ信じたくないという気持ちが強いからであろうか。嘘であってほしいという思いでいっぱいである。
 それにしても私に対しての距離を持った彼女を初めて見たような気がする。今までは私を立ててくれることが自分の役目であるがごとく振舞っていたので、ついつい彼女の本来の姿を見ようとしていなかった。いや、本来の姿が他にあるのでは、と思いながら、知りたい気持ちを自然とオブラートに包んでいたのだ。
 ベッドの中で軽い寝息を立てている泰恵を軽く抱き寄せるが、どうやら目を覚ます様子は見られない。
 もう一度抱きて気持ちを確かめたいという思いは脆くも崩れ去った。
 舌先に軽い痺れを感じる。まるでレモンをかじったような酸っぱさが口の中に広がり、上唇を何度も舐めてみる。別に喉が渇いているわけではないのに、なかなか収まらない痺れを感じているうちに、次第に睡魔に襲われていくを感じた。
 目の前を赤褐色の幕が覆う。
――どこかで見たような色だな――
 薄れいく意識の中で赤褐色に彩られた幕の表面に、黒いクモの巣が張られていくのが分かる。最初は平面に伸びていくクモの巣だったが、次第に立体感を感じてくると、それが初めて見るものではないような気がしてきた。確かに以前もどこかで見たことがあるもので、それがどこだったか、すぐには思い出せそうにもなかった。
――思い出すのと、意識がなくなるのでは、どちらが早いだろう――
 そう、思い出せると思った瞬間、私の意識は違うところにあった。
――夢だったのか――
 最初に感じたのは舌先に残った痺れだった。思わず上唇を舐めている。生唾を飲み込むと同時に、夢だったことを理解した。
 腕に刺さった針の痛さを一瞬感じたが、針の刺さった箇所のあたりが火照っているのも同時に感じた。血液が戻っているのだ。
 割り切って別れたはずである。最後の夜、未練など残すことなく激しく燃えたはずではなかったのか。私は自問自答を繰り返す。しかし夢に出てきた泰恵に対し未練などこれっぽっちもなかった。むしろ目が覚めた今、それを感じているのである。
「気分でも悪くなりました?」
 どこかおかしな素振りでもあったのか、そう言って看護婦さんが私に問いかけた。
「あ、いえ別に」
 曖昧に答えはしたが、自分でも眉の谷間にできた皺を感じるくらいなので、他人から見てさぞかしおかしな表情をしているに違いない。
「気分が悪くなったら、遠慮なく言ってください」
 社交辞令の挨拶の中にではあるが、安心感を与えなければ、という気持ちがしっかり表れていて、
「分かりました」
 という返事に返ってきた笑顔には安らぎが感じられた。
 腕の熱さに慣れてきた頃だろうか、気分はかなりよくなってきた。先ほどまで見ていた夢をリアルに感じながら、思い返している。胸には泰恵の肌を感じ、心地よい重さが残っている。
作品名:短編集72(過去作品) 作家名:森本晃次