短編集72(過去作品)
自己防衛の男
自己防衛の男
「コンコン」
「はい」
静かな廊下に響く乾いた音に反応し、部屋の中から今度は篭った声が返ってきた。
声の主は女性で、篭って聞こえるせいか、思ったより低い声である。いや、私自身が勝手に相手の声を過大評価し、高い声だと思い込んでいたのかも知れない。
だがその声にはっきりとした聞き覚えがあり、
「由香……」
声になっていなかったが、思わずそう呟いたのも無理のないことだった。
――会ったことのない女性―-
その表現は半分だけあっている。かつて会ったことがあるのだが、それはまだ声変わりもしていない小学校時代であり、女性としては初めてなのだ。
小学生時代の由香は、目立たない女の子だった。卒業を待つこともなく引っ越していったが、実際引っ越すとなって初めて意識したと言っても過言ではなく、それまで意識したことはおろか、話もろくにしたことすらなかったくらいである。
もちろん、声など覚えていない。顔すらおぼろげなのだが、なぜか遠くへ引っ越すと聞いた時、私の中で初めて彼女を意識した。そういえば、引越しの挨拶をした時の由香の寂しそうな顔が、私に向けられていたような気がしていたのを覚えている。それが由香に対しての私のすべてのイメージだ。
「吉村くん、さようなら」
由香の心の声が聞こえたような気がした。しかし何が悔しいと言って、心の声でさえ「さようなら」と言えなかったことである。いつも明るい由香の声はそれまでに何度も聞いたことがあった。しかし、心の声は明るい由香のいつもの声ではなく、一オクターブほど低い声であったことで、しばらく頭から離れなかった。そうその声に大人の女性を感じたのかも知れない。
遠くへ引っ越していく友達がそれまでにも何人かいた。もう会えないのかと思って寂しく思うことがあっても、それはその時だけのことである。しかし、彼女に限っていえば、寂しいという思いよりも、引っ越すに際して初めて今まで他の人に感じたことのないような思いがあったのだ。それはその時だけのものではなく、間違いなく後に残るであろうことも分かっていた。
初恋?
確かにそうかも知れない。元々異性への思いを感じるようになったのが中学卒業前と、友達と比較しても格段に遅かった。そのため、由香に対して感じた思いが何だったのか、しばらくは分からなかった。いや、本当は最近まで分かっていなかったのかも知れない。
おかげで異性を感じ始めてからの私というのは、自分でも異常と思えるほどであった。寝ても醒めても考えていることは女性のこと、しかしそこに肉体だけを考えているような厭らしさはなく、純情な青年だったことはここではっきりと断っておきたい。それで勉強が手につかなかったりしたことも事実で、成績もかなり下がったことは親に申し訳ない思いであった。
だが、何よりも自分で歯がゆい思いをしたのは、女性というものへの思いがあまりにも強かったため、肝心の男同士の友情に若干の亀裂が生じたことだった。小学校時代からの友人もかなりいたのだが、いつの間にか私から去っていく人がいた。女性というものへの感情があまりにも強いためだということにその時気付かなかったことが、私には口惜しい。
そんなわけで私の高校時代というのは、今思い返しただけでも思い出したくないほどの暗いものだった。結局恋人はおろか、ガールフレンドすらできず、友人を何人か無くすといった最悪の時代だったのだ。
しかしそれが一変したのが、大学に入学してからであった。
――これまでの自分を変えたい――
それが一番の目的だった。
高校時代まで、たとえそれが男性であっても積極的に会話していくタイプではなく、ただ人の会話のその他大勢として参加しているだけだった自分を一番変えたかった。主役の舞台に上がりたいという願望をいつも心の奥に持ちながら、それができないでいた自分に憤りを覚えていたのである。
それから、
「吉村はナンパな奴、しかしどこか面白いところがある奴だ」
と言われるようになった。
それは私にとって願ったり叶ったりで、元々ナンパというのが悪いという感覚を持っていなかったこと、さらに他人と差別化されることさえ厭わなかったのは、面白いということばイコール、個性だという思いが私の中にあったからだ。
面白い人……、これは私にとって最高のほめ言葉である。
今までなかなかできなかったガールフレンドができたことより、私にとって男性の友人が爆発的に増えたことの方がうれしかったのだ。
しかしナンパな奴という評判であったにもかかわらず、実際にしていた話というのは意外と真面目なことが多かった。将来について、人生観についてなど、よく下宿やアパートで一人暮らしをしている奴のところに泊めてもらっては、夜を徹して話しをしたものだった。
「僕は二重人格というよりも多重人格かも知れないな」
これが私のその時の口癖だった。根拠があるわけではない、漠然とそう思うだけだったのだが、友人はそれを聞いて頷いてくれていたので、私の中で確信めいたものが生まれたとすれば、大学時代が最初だったのかも知れない。
扉が開き、現れたその顔を見た時、涙のようなものが目から溢れてきたのは、懐かしさ以上のものを由香に感じたからかも知れない。目が充血し、心臓のドックンドックンという音がはっきり聞き取れるほど感動したことなど、果たして今までにあったであろうか。第一声が本当に声になったかどうか疑わしいものだ。
「ゆ、由香さん?」
消え入りそうな声であることは自分でも分かっていた。黙って頷く由香を見ると、どうやら伝わったようである。小学校時代のイメージがそのまま扉の向こうにあると思っていた緊張感から解放されたが、それにもまして私を見る視線に違う緊張感が走っていた。
「どうぞ、入って」
由香が部屋に招き入れてくれる。しばし金縛りが走ったかのように放心状態である私に対し、じれったさを感じているということが分かったのは、かなり後になってからのことだった。
――明らかに私の想像していた由香とは別人だ――
心の奥でそう呟く自分がいたのも事実である。
しかし今この場でそこまで頭が回るほど、私は冷静沈着な人間ではない。
――理性だけは……
それだけは失ってはいけないと必死で言い聞かせる自分が表にいる。それこそ冷静沈着な人間ではない証拠である。冷静な人間なら、もっとまわりを見れるような余裕があるはずだからである。そんなことは十分に分かっていて、そんな人間になりたいと思っているのだが、悲しいかな現実にはそうはうまくいかないものである。
「バタン」
扉の閉まる音が後ろで聞こえた。部屋の中央に歩み出る私は、後ろからついてくるように見つめる由香の視線が痛いほど分かった。その時私は田舎者のように部屋全体を見渡していた。それは、由香の熱い視線への照れ隠しであったからに他ならない。
ホテルの扉なのでそれほど大きな音が響くわけないのだが、私の耳にしばらく余韻のようなものが残り、心臓の鼓動すら確認できるほどである。
作品名:短編集72(過去作品) 作家名:森本晃次