短編集72(過去作品)
まわりを見渡すと、さすが土曜日ということもあり、入れ替わり立ち替わりで看護婦さんも大変である。
ほとんどの人がモニターに集中していて、あまりまわりを気にする人はいなかった。中にはモニターから目を放し、恍惚状態に浸っている人もいたが、私と同じような思いを感じているのかも知れない。
今日献血に来ると決めていたにもかかわらず、昨日は少しだけ夜更かしをした。いつもは日付が変わる前に睡魔が襲ってきて、そのまま寝てしまうのだが、昨夜はなぜか眠くならなかった。
今日が休みだと分かっているからであろうか。身体が眠気を欲しない。上下の瞼はまるで知らんぷりしていて、時間を知らないようだった。実際に寝たのは三時を回っていたかも知れない。記憶としてはっきりしているのは二時半までだった。
それでも朝は、しっかり目が覚めるもののようで、八時前には目が覚めていた。一旦起きてしまうと身体は慣れたもので、そのまま起きてきても何ら眠気を感じることはなかった。
もし今日献血に行こうと考えていなかったら、
――もう少し寝ていようかな――
と思っていたに違いない。
そういえば、そもそもなぜ献血に行こうなど思ったのだろう。いつもであればその日の予定を考えながらまとまらない時、最後に浮かんでくるアイデアであった。しかし今回思い立ったのはいきなりだったのだ。他の予定を考えるよりも先に、まず献血だったのである。
そんな思いの元やってきた血液センターで、いつもであればビデオを見ながら受けているのに、セットしたビデオに集中しようという気になれなかった。セットはしたものの、再生を始めてモニターを見ていても、それはただ画像が動いているというだけに過ぎなかった。
冷静に考えれば、昨夜眠れなかったことが最大の理由ということになるだろう。しかし冷静でいるにもかかわらず、思いが浮かばないまま疑問だけが残っていた。
睡魔より先に襲ってきた恍惚状態を、甘んじて受けながらあたりを見渡していると、正面で受けている人の視線が一瞬気になった。
――明らかにこちらを凝視している――
今までなぜ気がつかなかったかと思ったが、それもそのはず、気になったのはその一瞬で、あとはほとんど恍惚の表情をしていた。目が虚ろで口をポカンと開けていたが、なぜかその表情にだらしなさを感じることはなかった。
自分も今同じような表情をしているのだろうという思いを感じていた。
自分の顔を思い浮かべることで、突然の睡魔に襲われた。脈を打っている腕から抜けていく血液の温もりを感じながら、ゆっくりと夢の世界へと入っていった。
風もないのに空気が頬に当たっている。少し汗ばんだ身体にその風は気持ちよく、いかにも頬が紅潮していたことを再認識させられた。時計の針の音がやけに気になる。
しかしその針の音も次第に意識の彼方に通り過ぎていくような気がしていた。遠くの方から、かなり篭って聞こえる時計の音が耳鳴りとともに聞こえて来るのである。
森に囲まれた誰にも知られていない場所。そこには大きな湖があり、朝になるといつも霧が掛かっていて、鳥のさえずる声から風に揺れる木葉まですべてが篭って聞こえるような、そんな場所が瞼の奥に現れる。
――初めて見る光景なんだろうか? ――
いや、以前にもよく見た光景。現実に見たかどうかは、はっきりしないが、いつも夢に出てくる風景であることは間違いない。
――ああ、やっぱり夢なんだ――
まず間違いないだろう。
霧の中をゆっくりと歩いている。それが夢であると思っているにもかかわらず、実際に歩いている自分にその意識はない。これを夢だと思っている自分は、歩いている自分を客観的に見つめている“視聴者”なのだ。実際に“主人公”として舞台に上がっている私は回りを気にしながら、ただ自分の置かれた状況を理解しようとそれだけを考えている。
分かっていることは、今が朝でそのため霧が深いということだけだった。遠くから篭ったように聞こえるカッコウの声に森林浴を思い起こさせられ、森林の香りが濃厚な霧を掻き分けるように吹いてくる風に乗っていた。
私は一つ大きく深呼吸をした。光合成の影響で、新鮮な酸素を供給してくれる森林の香りは朝モードの頭をすっきりさせてくれるはずだ。
「うっ」
あまりにも濃厚な空気の中で思い切り息を吸い込んだため、さすがに咽てしまった。しかし頭の中がすっきりしていることに間違いはなく、見渡す限りの霧の中でも、何となく視界が広がってくるのを感じていた。
まわりを見渡しながら、自分の置かれている立場に少なからずの不安があったが、じっとしているつもりはなく、ゆっくりと歩き始めた。霧が深いため湿気が多いせいか、足元が少しぬかるんでいる。
何となくお腹が空いている。
暖かいご飯に暖かい味噌汁、具はジャガイモと玉ねぎが入っていればいいかな?
タマゴとパンの焼ける香ばしい匂いを思い出すたび、お腹が鳴るのを感じる。
頭の中で、和洋入り混じっている。
朝なので少し寒さを伴った風が吹いているが、それ以外は暑さ寒さを感じない。しかし朝の食卓の暖かさを思い出すのは、少し寒さを感じているからかも知れない。
台所から聞こえてくる包丁のトントンという音が耳にこびり付いていて当分離れそうにもなかった。
湖畔に白いベンチがあり、そこに腰を下ろしている自分が見える。ベンチの背もたれに寄りかかりながら、空を見ている私に何が写っているのだろう?
「もう別れましょう」
そう泰恵が言い出したのは、三日前のことだった。
「別れる? どうして?」
「理由は、聞かないで」
知り合ってから三年、今までに泰恵がこんなことを言い出すことは一度もなかった。
仕事が外回りの私は、週に三回の割合で訪れていた得意先の会社があったのだが、そこで事務員をしていたのが泰恵だった。
仕事での訪問だと分かっている私は、今までどれほど私好みの女性がいたとしてもほとんど意識することはなかった。いや、それは少し違う。意識はしているのだが、考えないようにしているといった方が正解である。
「お前はすぐに顔に出るからな」
学生時代から言われていたことで、意識していないつもりでも、他人から見れば露骨なほどの意識に見えるらしい。それゆえ私の女性の好みは私を知る人の周知のこととなっていた。
最初、泰恵を見た時、私好みの女性だと思ったかどうか、正直怪しい。元々一目惚れするタイプではないと思っていた私は、人がいういわゆる「一目惚れ」が信じられない。
だが相手には私の視線が痛いほど分かるみたいで、学生時代などそれほど強い意識のない女性から、露骨に嫌な顔をされたことも度々あった。その都度“なぜだろう?”という思いが頭に浮かんでは消え、自分が何者か分からなくなってしまった。
「お前は惚れっぽい方だからな」
よく学生時代に言われたものだ。
確かにそうかも知れない。指折り数えて好きになった人は数知れず、中には呆れていたやつもいたことだろう。
「やつは誰でもいいんだ」
作品名:短編集72(過去作品) 作家名:森本晃次