短編集72(過去作品)
鏡に写っているその顔は自分の意識にある表情をしていない。何気なく覗いたはずなのに、鏡の中の自分は目をカッと見開きこちらを見つめている。その後、二度、三度と瞬きを繰り返したが、居酒屋や電車の中での自分を見せ付けられているようで不気味だった。
それを見た私は驚きというよりも硬直のため、感情すら表れない。さぞかし顔の表情は眉一つ動いていないであろう。
しかも最初に変だと感じたのは、一瞬自分の顔が他人に見えたからである。しかしあまりにも一瞬のことだったので、それが誰だか分からなかったが、今そこにいた男ではないかという思いが強かった。
ここから抜けられなかったら、どうしよう。
今度ははっきりと自分の中で感じられた。見つめられたその人はそこから抜けられないのではないか、という思いが支配する。自分が見つめた男の視線から元に戻った時、その男が視界から消えていたことを考えれば、そういう考えに駆られても仕方のないことかも知れない。
そして今、あれだけ重かった身体から、次第に力が抜けていくのを感じた。それが全身に回るであろうという予感があったが、果たして回ったかどうか分からない。そのまま私は立ったまま気が遠くなっていくのを感じていた。
気の遠くなりそうな中で、時計の針の音が規則正しく聞こえている。
夢というのはどんなに長いものでも、目が覚める寸前に一瞬見るものらしい。それがどのようなメカニズムになっているのか分からないが、確かに起きてから夢のことを思い出そうとしても起きてから完全に目が覚めるまでの時間と比較しても短く感じられることさえある。
果たして目が覚めた私は一体どこにいるのだろう……。
「水谷くん、君、今日予定空いてるかね?」
ついに白羽の矢が私に当たった。
梶山から課長の噂は聞いていただけに、一気にその日の気分は急降下してしまった。
むげに断るわけにも行かず、迷っているのをいいことに課長はそそくさと話を進め、こちらに対して有無を言わせない勢いだ。
勢いに押される形になってしまった私だったが、それほどの不安を感じることはなかった。
その思いに根拠があるわけではなく、ただ、頭が回らないのだ。
何か別のことが頭の奥にあり、深く考えようとすると根拠のない確信めいたものが頭をよぎる。
根拠……、同じような思いを感じたことがあるのを思い出した。
今私は鏡を見ながら考える。
どこかにその“根拠”を忘れてきたのかも知れないと……。
( 完 )
作品名:短編集72(過去作品) 作家名:森本晃次