短編集72(過去作品)
平静は装っていても、トイレから人が出てきたことも分からないほど彼女の話に集中していたのかと、今さらながらに思い知らされた。
私が再度カウンターを向き彼女と話しを始めた時も、その男の気配は感じなかった。いることは分かっているのに気配を感じないということはそれだけ気になるというもので、気が付けばチラチラと横目で見ていた。
ひょっとして最初からそこにいたのかな?
背筋に少し冷たいものを感じたが、もしそうだとしたら気持ち悪い。
口に運んでいない時でも絶えずコーヒーカップの耳に人差し指を突っ込んでいて、何か考えごとをしているのか、顔はこちらを向いているのだが、視線はあらぬ方向を向いている。それだけに気配を感じないのだろう。
彼女との話に少し集中力を欠いていくのが分かる。こちらを向いているにもかかわらず視線はあらぬ方向を向き、しかも気配を感じないのでは、気にするなという方が無理である。
私には嫌な予感があった。
せっかくの彼女との楽しい会話を邪魔されたことへの怒りが、心の中から湧き上がってくる。そう感じれば感じるほど、意識は男へと向い、そのジレンマが自分自身に覆いかぶさってくるのだ。
一体男は何を考えているのだろう?
そう考え始めてからであった。男の気持ちが何となく分かるような気がしてきた。
寂しいような哀しいような思いを感じる。何が原因かは分からないが、急に私の中に鬱状態が忍び寄ってきたのだ。
元々学生時代から考え込んだり、余計なことで悩むことの多かった私は、定期的に鬱状態に見舞われたことがある。最近でこそあまりなかったので、半分その感覚を忘れていたが、今は鬱状態だった学生時代がまるで昨日のことのように思い出される。
躁鬱症とまで言い切れるものではなかったかも知れない。自分だけだろうと思っていた状態を友人に話すと、数人が自分もだ、と答えていた。少なからず救われたような気持ちになったものだ。
今まで鬱状態になる時というのが突然襲ってくるようなことはなかった。時と場合で違うのだが、何かしらの前兆というか胸騒ぎのようなものがあったのだ。
だが、今考えてみるとそれもあやふやな気がしてきた。
後から考えるから前兆があったと思うのであって、やはり突然やってくることもあったのではないかという思いである。たぶん、鬱状態が続いていく中で鬱状態への胸騒ぎがあったという思いが形成されていくのかも知れないと感じていた。
カウンターの男の表情は、まさしく学生時代の鬱状態だった頃の自分を見ているようだった。
その時男がこちらに向かってした行動に一瞬私は固まってしまった。
今までポカンと口を開け、ただあらぬ方向を向いていただけの男の瞼が、勢いよく閉じたのである。
二度、三度と瞬きをする。
この間、時間にして一秒ほどのことであったにもかかわらず、見ていた時は十数秒くらいに感じられたのはただの錯覚であろうか?
そして最後に開けたその瞼は、これ以上大きくならないだろうというほどに、カッと目を見開いていた。明らかにその視線は私を捉えている。
私の記憶に電車の中での記憶が思い出された。
それは、居酒屋でのことがまるでつい今しがたのことのように思えたのと同じで、電車の中でのことがはっきりと思い出せる。
男はなおも私を見つめ続ける。私も男を見つめ返すが、どうも様子がおかしい。どこがおかしいのかじっと考えていたのだが、もし、この男にも私と同じ能力が備わっているとするならば、彼は私が見ているのと同じ光景を見ているはずである。
目を開けてじっとその男を見つめていたが、どうもその男が瞬きしていないように感じられる。それがおかしいと思った原因のようだ。
まるで、抜け殻のようだ。
あらぬ方向を見ているのだが、その視線はまったく動こうとしない。どうしても目に注目が行ってしまい、瞬きをしていないことを知る。
そこまで感じてくると、私に異変が起き始めた。男を見ているはずの目が、ぼやけてくるのを感じる。何かが見えているのだが、それが何か分からない。天井のようなものが見えている気がしたが、すぐに消えてしまった。ひょっとしてあの男の視線ではないかと思ったのは、居酒屋や電車の中での記憶があるからだ。
目の前で画像が重なろうとしているように思うのだが、重なりきれない気がして仕方がない。どちらかを強く感じようとするのだが、はっきりと映ることなくモヤモヤしているだけだった。
またしてもあることを思い出した。
冬、冷たい風が吹く中歩いていると、ポケットに手を突っ込んで歩くことがある。手袋を忘れた時など、片方の手はポケットに突っ込むが、片方はカバンを持って歩く。
目的地に着いて冷たくなった指を暖めようとポケットに入れていた手を取り出し、包み込むように添えるのだが、その時感じることがある。
冷たいのと熱いのと、果たしてどちらを強く感じるのだろう?
冷たい方に集中しようとしても、熱い方に集中しようとしても、片方の意識が邪魔をするのか、結局どちらも感じることができない。
それは水と油のように、決して交わることのない感情である……。
今、感じている現象はそれに近いものではないだろうか?
最近ことあるごとに、このことを感じていたような気がする。しかしそれはあくまで一瞬であって、次の瞬間、考えていたことすら忘れているのだ。しかしふいに思い出し、なぜそんなことを感じるのかと、あとで疑問に感じたりもしていた。
気が付けば喉がカラカラに渇いていて、思ったより真剣に考えていたのだと思い知る。
何とか話題を彼女との話しに戻そうとするのだが、男が気になってしまうと、どうしても話に集中できなくなっていた。
さっきまでの勢いが大きければ大きいほど、一旦途切れてしまった話を戻すのは難しいようで、お互いにぎこちなくなったのか、会話に歯切れがなくなった。中途半端に話題が尽きてしまい、それ以降が出てこない。
私はその男を小憎らしく感じていた。
睨み返すつもりで、再度男の方を振り返ったのだが、
えっ!
私は自分の目を疑った。もうその男はそこにはいなかった。この間の居酒屋と電車の中での再現であったが、どうも勝手が違う。
何となく身体が重く、熱さを感じる。いつもと違い、うまくコントロールすることができない自分の身体にイライラを感じていたが、風邪の現象とも少し違う気がしてきた。
一気に下がった溜飲は如何ともし難く、
「また、今度仕切りなおしだ」
心の中でそう呟くと、重くなった身体を鞭打つように立ち上がった。
無意識に“どっこいしょ”とくらい、呟いたかも知れない。
カウンターの入り口で代金を払う時の彼女は無表情であった。さっきまであれだけ盛り上がっていたのに、なぜなのだろうと思うほどだった。
しかしそれも一瞬で、形式的に代金を払うことに不自然さがなくなり、出口へ向かおうとしたその時である。来る時は気にも留めなかったが、入り口の扉の横に鏡が置いてあるのだが、それを見た時であった。
「あれ? 自分の顔ってこんな感じだったかな?」
作品名:短編集72(過去作品) 作家名:森本晃次