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短編集72(過去作品)

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 元々鈍感な性格と自分の今の開放感から、まず気付かれることはないだろう。
「何だい、その思わせぶりは」
 顔が笑っている。しばらく梶山には黙っておいた方がいいだろうという選択をした。
 それからというもの、例の現象は私のまわりでは起こっていない。もし自分に例の能力が備わっているとしたら、やはり実際に激昂するようなことが起こらないと発揮できないのかも知れない。
 私は自分の能力を過信しているのかも知れない。いざとなれば他の人の目となって、ストレスを溜めなくて済むのだという思い……。しかし本当にそれが自分にとっていいことなのだろうか? あまりにも自分に都合のいいことなので手放しに喜べず、一抹の不安がどうしても残ってしまう。
 その不安が的中したのは、それからまもなくのことであった……。
 仕事もある程度落ち着いたこともあってか精神的にも余裕が出てきたのは、定時に終わってもまだしばらくは陽が暮れないからであろうか?
 少し汗ばむくらいの就業時間に、このまま家に帰るのはもったいないと思うようになっていた。
 私の足は自然と会社から裏道へと向いていた。今までは表通りを駅まで一直線の毎日だったが、以前課長と行った喫茶店が気になっていたのも事実で、正直身も心もウキウキ状態といっても過言ではない。
 陽が差す場所は汗ばむ陽気でも、一旦日陰に入ればまだ少し寒いくらいで、影になっているビルの裏をすきま風が通り抜けていく。
 眩しいところから来たせいか、闇に包まれたかのごとくのエリアはいかにも静寂を保っていて、目指す喫茶店も威風堂々としていた。
 さすが喫茶「赤レンガ」、その名に恥じぬ雰囲気は来るものに安らぎを与えてくれる。
 店内に充満するコーヒーの香りは、まさしくコーヒー専門店としての風格十分である。
「いらっしゃいませ」
 この間の女の子である。
 一人で喫茶店に入る時でも、席が空いていればテーブルに座ることが多い。
 しかしその日は迷わずカウンター席へと向かった。カウンターにはコーヒー専門店としては定番のサイフォンがいくつか置かれ、その奥の棚には洒落たコーヒーカップが綺麗に並べられている。
「好きなカップをお選び下さい」
 どうやらカップの指定ができるようだ。どこまでも専門店としての意識があるらしい。
「じゃあ、あれを」
 指差したカップは円筒形のものである。私は昔から、お椀形のカップより円筒形のカップの方に造詣が深かった。ただしマグカップよりもかなり細いものである。
「あら、私もこういう感じのカップが好きですのよ」
「そうですか、気が合いますね」
 この店の雰囲気を味わうのもさることながら、前から気になっていた彼女と会話ができればという思いが企てしてあったのも事実である。カップの趣味が同じということで、そこから会話が弾む予感がしてきたのはうれしいことだった。
 なるべく平静を装っていたが、心の中ではドキドキしている。女性と話すといえば会社で事務の女性と仕事上の話をするくらいで、もちろんドキドキするようなことなどまったくなかった。
 学生時代も女性と二人きりになると、話題性に乏しいためがすぐに会話が止まってしまい、相手を戸惑わせる結果に終わってしまっていた。そのため女性と二人きりになって話すなど今までは考えられなかったが、コーヒーの香りとクラシックのBGMに乗ったこの店独特の雰囲気に酔いながらであれば、話ができる気がしてくるのだ。
「クラシックの雰囲気がいいですね」
「ええ、実は私、短大で吹奏楽部でサックスを吹いてますのよ」
「あの音はいいですね」
 私も大学時代、少しギターをやっていたので、音楽の話で盛り上がること必至だった。趣味趣向が同じであれば、それほど違和感なく話すことができる。話題が途切れることがないからである。
 私は久しぶりの会話に興奮し、喉も涸れんばかりに熱弁を振るっていたことであろう。
 自分の感覚としては十分程度のものだと思っていたのに、気が付けば一時間が過ぎていた。
 それだけ私にとってのこの時間が濃密なものであったに違いない。
 カウンターの中で、話しながらでもテキパキと動いている彼女は堂々たるものだった。布巾を使って丁寧にカップを拭きながら棚に直すその姿は慣れたものである。話ながらでもついついその姿に見入ってしまっていた。
 彼女の話し方はテンポもよく、思わず話のペースに引き込まれてしまう。時間の感覚も薄れてきて、気が付けば自分の感覚よりはるかに時間が経過している。
 どちらかというと初めて話をする人が相手だと、ほとんど相手の話を聞いているというパターンが多く口数が少なめなのだが、趣味が合うということもあってか、今日は饒舌である。
 趣味が合うというだけでは片付けられない何かを感じ、それが彼女のオーラによるものだということはすぐに分かった。
「ね、でしょう、でしょう」
 これが彼女の口癖である。相手の話に同調するように話したことが、このようにオーバーなほどの感動を与えたかと思うと、嬉しくないはずがない。
 この時間がずっと続けばいいのに……。
 心の中で呟いた。こんな思いをしたのは久しぶりだ。女性と話すことが久しくなかったのも影響しているのかも知れない。
 最近は、時間が早く経てばいいと思うことが多く、そんな時に限って意外と時間が経っていないものだ。一日の終わりにその日のことを思い出そうとしても、今日の出来事が本当に今日だったのか疑問に思うほど、はるか前に感じてしまう。
 そうかと思えば、一週間があっという間に過ぎたような気がする時がある。一日一日があれだけ時間が掛かったにもかかわらず、過ぎてしまった一週間は短く感じるのだ。それだけ充実感のない毎日を送っているのだろう。
 本当に久しぶりである。この時間が止まってほしいとまで感じるのは……。
 それだけ充実感のある人との出会いをしていなかったのだと感じ、今までの生活がとてもつまらないものに写ってしまった。
 私はなるべく平静を装った。テンションの高い彼女のペースに合わせてもよかったのだが、それを拒んだのはこれからの関係を考えてのことだった。その日だけの関係ならば、彼女のペースに乗ってテンションが最高潮に達していたかも知れない。だが冷静な目で彼女を見ることを忘れない今の私は、“大人”の部分の自分も見せておきたかったのだ。
 それとこの店の落ち着いた雰囲気を壊したくないという思いがあったことも否めないであろう。
 彼女も私の気持ちが分かっているのか、時折見せる私の苦笑いに頷きながら、必要以上にテンションを上げないように心掛けてくれている。その気持ちは私にも分かった。
 店内に客が少ないのも功を奏していたが、少ないだけに静かな雰囲気を崩したくないという思いはお互いにあるのだ。
 ふと店内を見渡してみた。
 おや?
 奥のテーブルに客がいることは入ってきた時に確認したから分かっていた。しかし今見るとカウンターの奥に一人、黙って座っている男がいる。誰もいないことを確認してカウンターの一番手前の席に座ったはずなので、最初からいなかったことは間違いない。
 トイレにでも入っていたのだろうか?
作品名:短編集72(過去作品) 作家名:森本晃次