短編集72(過去作品)
どうせ他人事なんだからと思えばそれまでなのだろうが、どうしても気になってしまう。別に正義感からそう思うのではない。それほどの善人でないことは自分でもよく分かっているつもりだ。
ストレスが溜まる原因はそれだけではない。電車の中での携帯電話の使用、ヘッドホンステレオから漏れてくる音楽、そのすべてが気になるのだ。
これも気になりだしたのは携帯電話の普及からだ。それまでもヘッドホンステレオからの音楽は聞こえていたのだが、それほど気になることはなかった。携帯電話が気になり始めて改めて音楽も気になりだしたというのが本当のところである。
私にとってそんな奴らはどうしても敵視してしまう。
特に目が覚めてからそれほど時間も経っておらず、これから仕事をしようという決意を持って、いわば“戦闘体勢”に入ろうとしている矢先に、出鼻をくじかれるのである。敵視してもいたし方ないことではあるまいか。
しかし奴らにとってそんな私一人の目などまったく関係ないようだ。そもそも人目が気になるのなら人も迷惑も考えるというもので、後先の考えなどないからやっていることなのであろう。却って他人の目を感じたとしても、それは反発の念を抱くだけで、反省という二文字を促すことにはならないはずだ。
イライラするだけ損なのは分かっている。しかしイライラせずにはいられないのも私の性格の一つであり、こんな性格を持ち合わせた自分を呪ったことさえあった。
その日はいつになく電車が混んでいて、いつもは新聞を広げて見ている人もさすがに折って見るしかない状態であった。そんな満員状態の中で新聞を見るのもある意味非常識だが、そこまでは何とか許すことができる。
しかし人が少なかろうが、満員であろうが、ヘッドホンステレオの音と携帯電話の迷惑は相変わらずである。あちらこちらから着メロの音が聞こえ、続いて聞こえるのは「もしもし」という声である。
携帯電話で話している声が気になりだしてからというもの、電車内での談笑さえ気になりだした。特に満員の状態では不快指数がかなりの高さまで来ていて、ほとんどの人の表情は露骨に不快感をあらわにしているのが分かる。それは私同様の不快感であるに違いない。
特にその日は混んでいるせいか、私のまわりにイライラの根源が集中しているように感じた。ある程度の覚悟を持って乗り込んでいるのだが、それでもあまりの不快感は私の限界を超えることもある。
相手が分かろうが分かるまいが、歯を食いしばり睨み付けながら、露骨に不快感をあらわにし、その矛先を彼らに向ける。しかしすぐにそれが無駄なエネルギーであることを知るのだが、そのエネルギーがストレスとして溜まってくるから厄介なのだ。
しかしこれも私の性格である。やらずにはいられないのだ。
「おや?」
私は背後から視線を感じた。これだけの人込みの中で、他人の視線を感じることは容易ではないだろうが、はっきりと感じたのはストレスが溜まり始めているのを感じた時だった。
その視線は最初からあったのかも知れない。ただそれを感じるにはあまりにも不快感の元になる連中に集中力を削がれていて、気が付いたのはやっと今になってからというのが実情であった。
思わず後ろを振り返ったが、その視線が最初からどこだったか分かっていたかのように顔がある一点で止まった。そしてその先にある男を発見した時の私の驚き、その時完全に硬直してしまったことを考えればかなりのものであったことは間違いない。
「あの男?」
だがその顔には見覚えはない。
瞼を閉じると今にも浮かんできそうなその顔は、見間違えることなどないだろうと思っていたのだが、何よりもその視線の強さだけは忘れることができないものであった。
この間の再現とばかりに、二度、三度と瞬きをする。そして最後に強く瞼を重ね合わせると、それまで目の奥に焼きついていたはずの光景が残像として残っておらず、残像でも何でもない光景を思い浮かべながら、目を開けた。
「やはり」
想像した通り、私の目の前に広がった光景はさっきまで見ていたものと打って変わって一人の男を凝視する視界が広がっていた。
その一人の男はこちらを驚きの表情で見つめていて、痛いくらいの視線である。
それがいつも鏡を使わないと見ることのできない人であることはすぐに分かった。顔を見たからではない、最初からの想像があったからである。
「この間の再現だ」
思わず呟いた。
しかし、それは声になっていないだろう。声を発した自分の耳でも確認はできなかったし、今の回りの雰囲気を考えれば、声になっていようなどありえないことである。
目を開けた瞬間、耳には何も飛び込んでこない。人の話し声はおろか、まわりの喧騒とした雰囲気も音がなければ迫力が半減してしまう。
まるで真空状態。あれだけ鬱陶しかったまわりの雰囲気が伝わってこない。まわりの音は一切遮断され、キーンという耳鳴りのようなものがあるだけなのだ。
どうしてこんなことになったのだろう?
普通であれば当然そう考える。だが、昨日の居酒屋の件があってからというもの、自然と受け入れられる。いや、居酒屋の時も自然と受け入れられたではないか。
電車が下りる駅に近づいてくると今一度瞼を強く合わせ、勢いをつけて目を開けた。思った通り、私の目は私の身体へと戻って来たのだが、今までこちらを見ていた先ほどの男は、いずこへといなくなっている。
一体あの男たちは何者なのだろう? 同じ人物であれば特別な能力を持った人物がいるのだという理解もできるが、違う人物ということになれば、考え方を変えなければならない。
ひょっとして特別な能力を持っているのは自分の方では?
私の考えはそちらへと向かった。その証拠に昨日も今日もこの信じられないような状況に驚きを感じず、甘んじて受け入れて来たではないか。
無意識のうちにいつの間にか特殊な能力が備わり、それが私に都合よく作用しているとしか思えない。
だが、心の中でこの状況から抜けられなくなったらどうしようという思いがあり、しばらくその思いが抜けないだろうという予感もあったのだ。
確かに課長に声を掛けられた時の私は嫌だ嫌だという思いとは別に、何か胸騒ぎのようなものがあった。背中にゾクゾクしたものを感じたのだが、それは寒気を伴うような気持ちの悪いものではなく、どちらかというと楽しみを待っている時の雰囲気に近いものだった。胸から腹にかけて熱いものがこみ上げてくるようなそんな感じである。
その不思議なことがあったからであろうか。あれだけ梶山にしつこく誘いかけていた課長が、さっぱり私を誘わなくなったのだ。
「最近どうだい。課長は」
ニヤニヤしながら梶山が話し掛けてくる。さぞかし課長が毒牙の矛先を私に向けたことがうれしいのだろう。その笑顔には明らかに皮肉が込められている。
今までであれば、
何だ、こいつ。人の不幸を嘲笑いやがって……。
と、心の中で激昂するのだろうが、今の私は逆にそんな梶山に対し、してやったりの思いが強い。
「まあ、ぼちぼちかな?」
平静を装いながらでも、自然と漏れたであろう笑みに梶山は気が付いたであろうか?
作品名:短編集72(過去作品) 作家名:森本晃次