川の流れの果て(6)
「仕方ねえなら、おら、そうするだ」
「あん?」
「おめえさまがそうしねえとお花さんに乱暴するのぉ諦めねえなら、おら、そうするしかねえだ」
それを聞いた文蔵は怪訝そうな顔をして、やがて地面にぺっと唾を吐いた。そして、横を向いたままで、ギロッと影を睨む。
「…勝手な理屈だな、おめえのぁよ。だってそうじゃねえか。お花から「あいつをあの世へ送っちまってくれ」なんて、頼まれたわけでもなさそうだ。」
影は黙ったままだったので、文蔵はもう一口喋って相手を負かそうとした。
「俺ぁ別にお花ぁいたぶろうとしてこうしてるんじゃねえ。お花に俺のモンになって欲しいだけだ。俺ぁ、俺のやり方でお花ぁ口説いただけだ!その俺をどうしてえかはお花の決めることでい!おめえはそれを勝手に思い込んで、結局自分の邪魔者殺してえだけじゃねえか!」
そう怒鳴って影をへこませようとした文蔵は片手を大きく振り下ろしたが、影はゆらりとも動かなかった。
「おらはお花さんのことは諦めるだ。だからおめえさまもそうするだ。じゃなきゃ、今ここで殺すだ」
影は仕方なそうにそう言い、文蔵の事は放って、道に落とした石をもう一度拾いに身を屈めた。その後ろ姿には、とても人を殺そうとしているような殺気は無かったが、反対に、人を殺す事への躊躇いや怯えも見えなかった。
「勝手な理屈の次ぁ、こっちになんにもいいことがねえ取引かい…てめえの頭はどうなってんだよ…」
そうは言っていたが、文蔵は躊躇した。
文蔵にはもう分かっていた。「こいつぁ、本気だ」。道理も決まりも影には関係の無い事で、お花がどう願うかすら大して気にもせず、「お花が危ない目に遭わない」ようにする。それが目的だというだけのようだ。
立ち上がった影の黒い輪郭は、自分が右手に持った石と、文蔵の頭を見比べて、うんうんと頷いているように動いた。
「どうするだ」
影は命のやり取りを迫っているというのにどこか気の抜けた声でそう問い、一足こちらへ進む。闇の中から、足だけが見えた。細く頼りない、白い足だったが、それがもう一歩こちらへ近付くと、右手に持ったごつごつした大きな石が、鈍い光を返すのが見えた。
影の手はしっかりと指を開いて石をむんずと掴んでおり、それを今すぐにでも文蔵の頭へ振り下ろせるようにか、緩く上下に振っている。
文蔵は影の持つ石と、自分のドスを見比べた。こちらに分があるのははっきり分かっているのに、どうしても動けなかった。
文蔵の耳元で誰かが、(ただ殺す気でいるのと、自分がどうなろうとも相手の息の根を止める気でいることは、全然違う)。そう囁いた気がした。
この男は、もう自分に狙いを定めている。しかも、こちらが何を言っても、もう聞き入れそうにない。
おそらく今、この男は、自分を殺す事しか考えていないだろう。一心に、お花の身を守るためと思い込んで喋っている内に、あっという間に殺意に呑まれてしまったようだ。
文蔵はそれを肌で感じ取り、踏ん張った脚に力を入れる。
(こいつぁ、手を出したら、先に引いた方が必ず負ける。奴ぁ死んでも引かねえだろう。とすると、俺も命懸けで奴を殺さなきゃなんねえ。ちぇっ、つまらねえ野郎だ…)、文蔵は心の中でため息を吐いた。
文蔵は目の前の男が怖いわけではなかったが、何の恨みもなく人を殺してでもお花を手にしたいわけでもなければ、死ぬのが怖くないわけでもなかった。
(逆に言やあ、ここまで思い詰めなきゃ、こいつは俺を殺そうなんざ、思いつきもしなかっただろう。つくづく馬鹿真面目な奴が気が振れると、手に負えねえ)
文蔵はもうこの勝負からは逃げようと決めていた。博打と一緒で、持ち分を守るには、引き際を覚えなければならない。
しかも、博打とは賭けているものが違った。
惜しいとするなら、ただ一つ、目の前の男が勝手に思い込んで全てを投げ打ってしまったがために、自分が引かざるを得なくなった事くらいであった。
「さあ」
もう一歩影が足を進めると、前掛けごしらえの体と、首元までが提灯に照らされる。文蔵までもう二歩だ。
影がもう一足を出して、文蔵に向かって飛びかかろうとする直前、「今しかねぇ!」、文蔵はそう思い、一気に身を翻す。目の端に石を構えた真っ黒な瞳が見えた気がした。
文蔵は後ろを向いてひたすらに走ったが、一度だけ振り返った。
「てめえみてえなのが一番始末が悪いんでい!」
走りながら文蔵はそう悪態を吐いたが、影は追いかけもせず石を持った右腕をぶらぶらとさせ、満足そうに、「約束だでよ」とつぶやいた。
作品名:川の流れの果て(6) 作家名:桐生甘太郎