川の流れの果て(6)
「おめえか!さっき石を投げたのぁ!」
暗い土手下の道で、二人の男が対峙して睨み合っていた。一人は影のように暗闇に立って仁王立ちの輪郭が微かに見え、黙っていて、顔も見えなかった。
もう一人は今しがたお花に向けていたドスを今度は影に向かって差し出しているさっきの男だ。
近くの店の裏口に提げてある提灯の灯りで、額の古傷の横に、赤い血の筋を垂らしているのが見えた。
「なんのつもりだ!ただじゃあおかねえぞ!俺がどんな者か知って手え出したってんなら、分からせてやる!」
額に血のある男は憤然とそう叫び、暴れ馬のように影に向かっていこうとした。
「お花さんにこれ以上手を出すなら、おら、許さねえだ」
闇に立った仁王立ちの影は、落ち着きながらも憎々しい調子を抑えず、そう言い放った。
影に向かっていこうとしていた男はつんのめったように立ち止まってしばらく黙っていたが、ぷっと吹き出すと、大声で笑い出した。
「ははは!許さねえ、だとよ!」
血を流している男は、腹を抱えて笑った。
「何がおかしいんでぇ」
影は静かにそう聞いて、どうやら手に持っていたらしい石を二つ投げ捨てた。ごろりとそれが転がって、やがて道に黙って座ってしまっても、血を流す男は笑い続けた。そして笑うのをやめた時、影に向かって喋り出す。
「あーおかしい。何がっておめえ、お花は誰とも縁付けられちゃいねえ。おめえはどうせお花に岡惚れしてるどっかの馬の骨に過ぎねえんだろうし、顔は見えねえがおめえは声はかなり若えし、喋りっ調子もどうやら江戸の者でもねえ…なのにこの俺に石をぶっつけて邪魔して、「許さねえ」なんて偉そうに言うからおかしくって堪らねえんだよ…馬鹿にするねぇ!こちとら酸いも甘いも噛み分けた、江戸の「入れ墨文蔵」だぁ!てめえなんかの相手じゃねぇ!」
そう言って啖呵を切った「入れ墨文蔵」に対して、影は怯えることもなく平然とその場に立ち続けた。
「おめえさまがどんなお人だろうと、おらそんなことはどうでもいいだ。おらが誰だろうとどうでもいいだ。ただ、お花さんを怖がらせるのはおらが許さねえし、おめえさまがお花さんをどうにかしようってんなら、おらはどんな手を使ってでもやめさせるだ」
影がそう言った声は落ち着いていて、闇の中から聴こえてくる声に迷いはなく、それは、底の知れぬ怪しさを感じさせた。それでも文蔵は大して気にもかけていない風で話を続ける。
「なんでい、俺ぁもちろんお花を諦めやしねえぜ。そしたらどうする。殺しでもするってえのか?」
へらへら笑いながら文蔵がそんな脅し文句を言うとしばらく影は黙っていたが、闇の中からため息が聴こえた。
川を通る風がぴゅうぴゅうと鳴って草を騒がせる音が響いている。二人の居る小道は誰も通らず、どの家も皆もう寒い風を防ごうと閉まりがしてあって、もちろん二階の障子を開けている近所の家などあるわけもない。
誰にも知られる事の無い、冷たく暗い、冬の夜だ。おそらくはここで何をしようと、誰もそれを知ることは無いだろう。
文蔵はふと、背後からの冷たい風が、影の居る闇に向かって集まっているような気がした。
作品名:川の流れの果て(6) 作家名:桐生甘太郎