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桐生甘太郎
桐生甘太郎
novelistID. 68250
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川の流れの果て(6)

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「又吉さん。はい、お酒と、鰤大根です」
一年ももう終わりに差し掛かるある夜、柳屋を訪れた又吉は、店に一人だった。いつもは門限があると言うが、その日は店の休みの前日だからか、それも構わず遅くに訪れ、もう店を閉める間近なので、「遅くにすまねえだあ。残ったもんで構わねえだでえ、煮物と、酒をくだせえ」と控えめに笑った。

吉兵衛は鰤大根の残りを温め直して皿に盛ると、又吉に「これから片付けたいんだが、いいかい、又吉さん」と確かめてから、鍋やまな板をハトバへ運んで、又吉が帰るまでの間、もたもたと煙草を吸っていた。

お花は、お客が又吉だけという、願ってもない事に喜んだが、父も居るのではしたない真似は出来ず、又吉に体を向けもせずにへっついに寄りかかって茶を啜っていた。

時たまちらっと又吉が飲み食いするのを見て、お花は以前父親と話した事を思い出して頬が熱くなり、胸が締め付けられる甘さを味わい、「おとっつぁんが言い出してくれないかしら」と、胸を躍らせて待っていた。

又吉は食べ終わって皿を膳に下ろすと、お花の方に首を向けた。

「お花さん」

お花はその時の又吉の目の優しさに、普段とは違う何かを感じ、急に胸が高鳴る。

息が苦しいわ。でも、返事をしなくちゃ。そう思って、お花はただ、「はい」と言った。

「体は大丈夫けえ。忙しそうだがぁ」
又吉が喋り出したのは残念ながらお花が思い描いていたものではなかったが、お花にとっては十分嬉しい事だった。
「は、はい、慣れていますし、大丈夫です。又吉さんこそ…」

自分はこんな声だったかしら、こんな喋り方を以前からしていたかしらと、お花は小さな事も分からなくなってしまいそうだった。

「おらぁ体が丈夫だでよ。大丈夫だぁ。それで、お花さん、心配事はないけ?」
そう言って又吉は少し酔っているのか、首をがくりと傾けた。

改めてそういう事を聞かれると、人は急には返事が出来ないものだ。お花はちょっとの間俯いて唇に手を当てていたが、特に思い当たる事は無かった。

(あの男も、そういえばもうあれから二十日は過ぎたけど、姿を現してないし…)とお花は思い出して、忙しい毎日を少しだけ振り返った。

お花は、あの時から暗い道を歩くのは酷く怖くなったし、始めの三日ほどは忘れられなかった。

店に居る時でさえ、「あの時は闇に乗じてだったけど、殺すだけなら店でだって出来るし、あの男がいつ飛び込んで来るとも知れない」と、怯えて過ごしていた。

だが、幸いに何もなかったので、忙しさの中であっという間に忘れてしまっていたのだった。

「ええ、何もないです、ご心配ありがとうございます」
お花がすっきりとした気持ちでそう答えると、又吉は納得したようにうんうんと頷いた。

「お花さんは綺麗な娘っこだでぇ、夜道にゃあ気を付けるでよぉ」
「いえそんな…ありがとうございます」

お花は、又吉が自分の悩みがどんなものか想像してくれていたと思って嬉しくて、いっそ一月前まで居た客の男の話を喋ってしまおうかとも思ったが、吉兵衛にも心配を掛けまいと思って話していなかったし、胸に仕舞って忘れてしまおうと思って、もう一口茶を啜った。

「じゃあおら帰るだでぇ、お代はいくらだがぁ?」
「三十文です」
「あいよ、じゃあ、遅くにすまなかったでねぇ」
「まいどあり、又吉さん」
「お気をつけて」

吉兵衛とお花は店先で又吉を送り出してから、お互いに何か言いたそうにしていたが、お花が吉兵衛を見上げると、吉兵衛はふふっと笑って、「奉公人はのれんを分けてもらうまで女房を持つわけにゃあいかねえ。お前も知ってるだろう」と言った。
お花は拗ねたように下を向いていたが、その唇には穏やかな微笑を湛えていた。