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桐生甘太郎
桐生甘太郎
novelistID. 68250
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川の流れの果て(6)

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それは師走の始め頃のある晩、吉兵衛がお花を近所に使いに出した時の事であった。

「ああ、遅くなってしまった、もうお客が多くなってくる時分なのに…」

お花は独り言を言いながら、父に頼まれた品物の包みを抱えてはしはしと歩き、土手を通って早道をしようとした。

辺りは薄紫色の濁りがすべてを包み込んで闇へ葬っていく最中で、一瞬一瞬暗くなっていく。堤防の上に上がって川岸を歩いていると、川端に鬱蒼と茂る葦が、どす黒くて大きな怪物がこちらをじっとり狙いながら横たわっているようであった。

それがざわざわと風に騒いでいる音が自分の背中を急かしているように感じ、お花は辺りをきょろきょろと見回して怖がり、「早く何か灯りが見えないか」と必死に歩いていた。

やがて店の少し手前にある「往来安全」と書かれた行灯が見え、お花がやっとほっとした時、その足元に誰か男が蹲っているのが見えたので、ぎょっとして一度立ち止まる。立ち止まりはしたが、進まなければ店へ帰れないので、仕方なくその男が蹲っている行灯の左側ではなく、右側を行こうと、おずおずと足を踏み出した。

「お花さんじゃねえかい」

行灯の傍の男に名を呼ばれてお花はびっくりしたが、「知ってる人だったのかしら」と安心しかけた。そして男が大儀そうに立ち上がって顔を行灯の横に並べると、そこへ、蛇のように抜け目の無さそうな目と、額に残った刀傷が浮かび上がった。

「あ、あ…」
お花は恐怖した。なぜなら、この男は、前々からお花を付け狙っていた町内の悪だったからだ。


親分の手下とさえ小競り合いをして、「その筋でもない小物を相手にしては、自分達が奉行所から睨まれる」と親分が手下に言い含めなければ、額の刀傷などでは済まないような、あくどい人間であった。

入れ墨者の乱暴者で横柄で、そんな者を置いてくれる長屋の主があるわけもなく、普段は寺の軒下や橋の下で寝起きをしていたが、博打で嫁いだ金でしょっちゅう柳屋に来ては、町内で評判の美人であるお花に対して、気安く下品な口説き文句をぶつけて、それを恥とも思わない男であった。

あくどい男らしく、父親である吉兵衛の居る前ではお花に手を掛けるような事はせずにへらへらと笑っており、吉兵衛に対しても当たり前の世辞をいつも言い添えるのを忘れず、「あの人はそう悪いとも思えないんだがな」と、人の好い吉兵衛になら簡単に言わせるまでに、繕いが上手かった。

そんなものだからお花も「しつこく言い寄られて困っている」と言い出す事も出来ず、「もう来なくなってくれないか」と祈るばかりであった。


その男が今、闇に乗じて自分を待ち伏せていたのかもしれない。そう思うと、お花は「逃げなければ」と思うのに、竦み上がって何も出来ないのであった。

「考えてくれたかい、この間の件よ」
男は薄く笑い、何気なく横を向いてそう言う。
「な、なんの、ことでしょう…」

お花は感づいていた。この間店へ来た時に、男は膳を運んできたお花の腕をいきなり掴んで、「俺と逃げて、田舎へ行って一緒になろう、出来なきゃおめえを殺しちまうからよ」と、脅してきたのだ。

まさか、それが今決されるのかと思うと、お花は恐ろしくてそれ以上口を利けず、かといってもう逃げたり抵抗したりする気力も奪われてしまったのか、手元の荷物に抱き着いて、なんとか立っていた。

「俺ぁ今、こいつを持ってる。なんのためかお前も分かるだろう。うんと言ってくれ」

そう言って男は出し抜けに懐からドスを取り出して鞘から抜き、お花を睨んだまま刃先をお花に向けた。

お花は驚きに息を止めて目を見開き、返事をしなかった。自分に向けられた鋭い切っ先を見つめ、それが自分の腹を裂き、自分がその苦しみに悶えて息を絶えさせるのを思って、ガタガタと震え、泣き出す。涙があとからあとから溢れては地面に落ちた。

「ちぇっ、聞いちゃいねえ」
男は泣き続けるお花をつまらなそうに見やってドスを軽く一振りすると、「やっちまおう」と決めたのか、それとも連れ去ってしまうつもりなのか、ずんずんお花に近づいた。

「…あ…!」

お花が声にならない叫びを微かに捻り出した時、突然闇の中から何かが男の頭に突き当たって、男は「いてえっ!」と声を上げた。

辺りはもう暗闇になっていて様子は分からず、しかし男は土手から下りた道の方を見つめている。お花はわけもわからず泣いていたが、何かが男の邪魔をしたのだけは分かったらしい、お花も釣られてゆっくりと、男が睨んでいる闇の方を見つめた。

「誰だ!そこに居んのぁ!」
男が金切り声を上げたのでびっくりしてお花がまた男を見つめると、今度は飛んでくる石が男の腹に当たるのが、お花にもはっきり見えた。

「ちっくしょう!」
男は自分に向けて石を投げてくる何者かに怒り狂って、お花を放って土手を駆け下りて行った。お花はそれを見て「どうやら助かったようだ」と思い、ごく細くにして堪えていた息をゆっくりと緩めていった。
だんだんとその体を自分のものに取り戻すと、お花は震えて動かない足を一足出す。そして、そこから先はまるで今、男に追われているように、店まで一目散に駆けて行った。