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桐生甘太郎
桐生甘太郎
novelistID. 68250
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川の流れの果て(4)

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次に又吉が「柳屋」に来たのは、秋も深まってきた頃の夕刻だった。

「又吉ぃ!こっちだこっちだ!」
「よく来たなぁ!早く座れや!」
「へえ、ありがとうごぜえますだ」

その晩、深川の紺屋連中と又吉は、いつも紺屋の連中が店が空いていれば必ず座る座敷に陣取って、楽しく一杯やっていた。

肴は秋ということで芋の炊き込み飯、それから刺身やなんかで、又吉は必ずいつも頼む三合のにごり酒と、紺屋の連中も少ない銭をいっぱいに放り出してどんどん飲んでいた。

その晩の話題は、まず、又吉がこの間頬に抱えていた腫れがうまいこと引いて、元の男前に戻った事で、それから店での番頭の振る舞いなどを皆が聞きたがったが、「へえ、叱られてるけんどぉ、番頭さんだってあれぁ頭に血が上っただけだでぇ、あやまってくれたでよぉ…」と、又吉はそう言って、なんでもなさそうに笑った。

特に与助はそれでは納得がいかなそうだったが、又吉が困ったようにしょんぼりとしてしまうので、留五郎がそこへ、「まあ今日は快気祝いだ、飲めや飲めや!」と又吉へ酌をした。

又吉は「ありがとうごぜえますだぁ、こりゃあええで、すまねえだぁ」と喜んでいた。

お花や吉兵衛親方も、ひとまずは安心したようで、お花はこっそりと前掛けで頬を拭ったが、一度酒を運んできた時に、「本当にすっかり治って良かった、又吉さん。今夜はたんとあがって下さいね」と、店の自慢の、江戸前の刺身を置いていった。

又吉は「こ、こんなこつしてもらっちゃあ…!はあ、ありがとうごぜえますだ。本当に、嬉しいだぁ!」と、酔っ払っていたところへの刺身に喜んだのか、お花の健気な眼差しへの返事だったのか、嬉しそうに笑った。

宴の席は大いに盛り上がった後、今度は皆が酔いが回って留五郎は眠たげに、与助は鼻を啜って、又吉は快さそうに刺身で酒を飲んでいて、ふっつりと全員が黙り込んだ時があった。

「又吉ぃ、おめえよ、本に興味ぁあるか?」

三郎がそう切り出したのはあまりに唐突で、その場に居た全員が怪訝そうな顔をした。

又吉も、出し抜けにそう言われたので、驚いて目を丸くしている。それから、どうやらあまり本は読んだことがないんだというように顎を引いて恥ずかしそうに笑い、「おらぁ、字は読めても、本を買ったり借りたりする銭はねえだで…」と頭を掻いた。

三郎は微笑んで自分の懐に手を突っ込むと、その手でずっとそこに忍ばせていたらしい「おくの細道」を取り出して、又吉の前に差し出した。

「又吉、俺ぁおめえにこの本を貸してやろうと思うがどうでぃ。おめえはもしかするってえと自分の店に居る時にゃあ商売のことで頭がいっぱいなんじゃねぇかと思うんだがな。なんかに夢中になりゃあ、その苦労もねえと思うしよ」
そう言って三郎はにこりと笑い、それから一言、「おめえも忙しい身だ。無理にとは言わねえ」と付け加える。

「へ、へえ、ありがとうごぜえますだ…でも、なんの本だでな」
又吉はなぜ自分が本などというものを勧められたのかよく分からないといった顔をしているようでいて、図星を刺された人間らしく頬を赤らめて控えめに笑っていた。
「「おくの細道」ってえもんだ。旅の本で、景色の様子や、そん時に読んだ俳句なんかが書いてある。ちいとむつかしいが、読めねえもんじゃねえだろう」
「へ、へえ…」
「商売にゃ関係はねえが、おめえさんはどうも根を詰める奴に見えるからな」
又吉はおずおずと手を出して本を受け取ると、座ったままで三郎に向かっていつものぴょこっとしたお辞儀をした。
「ありがとうごぜえますだ。ほんじゃあ、読んだら返しにぃ、またここに来ますでなぁ、今日はもう帰りますだぁ」
そう言いながら又吉は一同を見回してぺこぺこと顔を見てお辞儀をして、立ち上がった。
「うん、もう帰るのかい」
「門限がありますでなぁ」

重ねて礼をして、それから「お先に失礼しますだぁ」と、又吉は帰って行った。


又吉が行ってしまってから、留五郎が三郎を見る。
「おめえもよ、思うことがあるか」
留五郎が切羽詰まったような目でそう言うと、三郎は留五郎を見ずに「なんだ」と返す。
「又吉を見てて、よ」
三郎は、留五郎にあまり気のない目をちろっとくれてやってから、膳の上に乗った、又吉が残していった空の皿を見ながら、「そりゃあな…」とつぶやいた。与助も酒を飲むのをやめ、黙って顔をしかめている。


誰も又吉についての話なんかしたことがないのに、もう皆が暗黙の了解を前に置いて話をしているように、空気は一様に重く、ほかの席から響いてくる笑い声は、そこには届かなかった。