呪縛からの時効
それは、歴史学だけに没頭している自分を心の中で尊敬していながらも、どこかに一抹の不安を感じていたからだ。ひょっとすると、
「何らかの理由で歴史学を断念せざるおえなくなると、自分がどうなってしまうか分からない」
という思いがあったからなのかも知れない。
歴史学以外の勉強にはまったく興味を示さず、成績にもその気持ちが正直に表れていた。大学に入学できたことですら、
「まるで奇跡だ」
と思っていたくらいだったので、そんな風にも思うのだろう。
そんな自分が、まわりを見ていて。まわりと同じようにやっていると思い込んでしまったことで、二年生の終わりに現実に引き戻されることになる。
――やっぱり、俺って人とは違うんだ――
と思い知らされた。
これは後悔とはまた違っていた。
後悔があったとすれば、人と同じようにしてしまったということではなく、何も考えていなかった自分に対しての後悔だった。有頂天に甘えが生じ、意識していなかったとはいえ、
「人と同じことをしていればいいんだ」
という結果的な行動に至ってしまった自分に腹が立った。
後悔というのとは少し違っていたのかも知れない。阿久津のそれからは余計に人と同じでは嫌だという考えにいまさらながら至ったのであった。
阿久津は大学院に進んで、まわりが自分のレベルよりも高いことを痛感することになった。何しろ、
「選ばれた集団」
と言ってもいいような連中の中にいるのだから、それも当たり前のことだ。
まわりを見ると、
――どいつもこいつも無口で、何を考えているのか分からない――
という風に見えたが、自分もまわりから同じように思われているに違いないと思うと、逆にそう思われていることを納得できる気がした。
「人と同じでは嫌だ」
と思うようになったのは、大学二年生の頃に、
「まわりから置いていかれた」
と思った時であった。
確かに人と同じでは嫌だと思ったのは置いて行かれたという意識があったからであるが、それだけではないと、絶えず思っていた。そう思っていると、人と同じでは嫌だという思いが、本当に大学二年生のあの時に初めて感じたものだということに疑問を呈するようになった。
――もっと前からだったような気がするな――
それがいつのことだったのか思い出せないが、ひょっとすると、歴史が好きになった小学生の頃からだったような気もする。
中学に入ると思春期を迎えた。阿久津は自分が思春期の時期に意識として思春期にいたという感覚はその時はなかったが、いつの間にか大学生になっていた自分をふと感じた時、思春期の存在が確かにあったということを無意識に証明しているように思えてならなかった。
大学院に進んで、まわりが似たような連中ばかりに見えた時、
――こんなに息苦しいとは思ってもいなかった――
と感じるほど、空気の重たさや、まるで水の中にいるような身動きの取れない感覚に陥った。
だが阿久津にとって大学院は、
「自分の目指す頂」
のように思えていた。
そんな頂を見ているはずなのに、そこにいる人たちはどうしてこんなにも自分に不快感を与えるのかと思うと、理不尽さも感じた。
だが、すべてのことに満足して有頂天になってしまうと、結果的に自分を見失ってしまうということを大学二年生の時に感じたことで、この状態もそれほど悪いことのようには思えなかった。
大学院での研究は毎日があっという間に過ぎていく気がした。
だが、不思議なことに一か月という単位で考えてみると、かなりの時間が経っているような気がするのだ。
――こんな感覚以前にも味わったことがあったな――
と阿久津は感じた。
それがいつだったのかハッキリとは覚えていないが、時間の感覚が、同じ時期であっても、周期によってまったく違って感じられるというのは、初めてではなかったということである。
ただ、以前に感じた時はその感覚は逆だった。
あの時は、
「一日は結構長く感じられて。なかなか時間が進んでくれないと思っていたのに、一か月を思うと、あっという間だったような気がしたような気がする」
と感じていた。
きっと、あの時と自分が感じている感覚が正反対だったのだろう。大学院で充実した毎日を過ごしている時に感じたのと正反対だったということは、
――毎日を何も考えずに過ごしていたということなのではないか?
と感じたが、実際には前の方が、
「気が付けばいつも何かを考えていた」
と思っていた頃である。
今の方が、考えることは決まっていて、歴史学に集中していればいいのだが、あの時は漠然と何かを考えていただけで、ある意味では気持ちにのびしろがあったと言えるのかも知れない。
そんな前の自分を大学院に入るまでは嫌いだったが、大学院で勉強をしている時には、
「まんざらでもないのかな?」
と思うようになっていた。
過去の自分を顧みることは前にもあったが、それはその時現在の自分を昔と比較して、
「それほど悪いものではない」
と、納得させたいがための、一種の抵抗のようなものだったのかも知れない。
だが、大学院に入ってから過去を顧みるのは、それだけではないような気がする。確かに過去を振り返ることで、
――前の自分に比べて、本当に充実している――
と再認識したいという気持ちがあるのも事実だろう。
しかし、それだけではない何かがあったのも事実で、少なくとも前を向いている自分を意識することができたのは、悪いことではないと思えた。
阿久津がそもそも歴史学を好きになったのは、
「歴史というものが、途切れもなく続いているものだ」
ということが分かったからである。
時間が規則的に過去から未来に向かって続いているのだから当たり前のことで、時間の感覚という考えを見れば、歴史学というのは、物理学にも精通することであり、また歴史の事実としての事件や事実は、すべて一人一人の人間の思惑が、時代を動かすことで成り立っているという考えを思えば、歴史というのが心理学や文化人類学にも精通していると思えてきた。
そう考えると、
「歴史学というのは、すべての学問に繋がっていると言えなくもない」
と思えてきたとしても不思議ではない。
実際にすべての学問に通じるかどうかは、まだまだ勉強不足であるが、歴史学を勉強する意義の一つとして、そのことを証明するということに繋がると思うようになっていた。
阿久津は大学院での勉強を、表に出てからすることはなかった。考古学などと違って、発掘を行ったりすることもなく、身体を使わずに頭だけを使っての研究に、満足していたのかは分からないが、一定の理解をしているつもりだった。
歴史の勉強をしていると、自分が考えていた歴史というおのとは少し違っているような気がした。歴史には時代時代があって、その時々で政権があったり、その政権も体制が違ったりと、点で捉えることを最初は考えていた。
もちろん、何千年という時間が経過している中での出来ことなので、それぞれの時代や政治体制に対して、
「専門分野」
として研究家が違ってきても仕方のないことだ。