呪縛からの時効
と思っていたにも関わらず、ほとんどの連中は、そんな阿久津を見て、照れ笑いをしているだけで、まんざらでもないと思っていたようだった。
阿久津も高校時代は目立つ方ではなかった。一応成績はよかったので、まわりからは、
「インテリ」
と思われていたようだ。
だが、それをまわりにひけらかすことはなかった阿久津だったので、苛めの対象になったりはしなかったが、それでも彼をやっかんでいた人もいたに違いない。
香苗はそんな阿久津を意識していた。だから、あまり自分から声を掛けることはしてはいけないと高校時代には思っていた。その思いは阿久津には通じなかったが、香苗が
――自分のことを意識しているのではないか――
と感じてはいた。
しかし、感じてはいたが、
――気のせいではないか――
という思いも強く、高校時代の阿久津は学問に関しては自分の考えたことに絶対的な自信を持っていたが、ことプライベートなこととなると、自分の考えを否定から入ってしまうくせがあったのだ。
そんな高校時代の思い出に、香苗の絵を描こうと思ったことがあった。
阿久津は絵を描くのが得意ではなかったので、誰にも言ってはいなかったが、それでも何とか完成させようと頑張ったが、結局は完成しなかった。
香苗の方も、偶然ではあるが、阿久津の絵を描こうと試みたことがあった。
香苗の方は絵心があり、何とか阿久津の絵を完成させ、本人に見せようか悩んだ時期があった。
しかし、結局は見せることもなく、自分の部屋に結婚しても置いていたのだが、こちらも阿久津には何も言っていない。いずれこのことを阿久津は知ることになるのだが、それも悲しい結末と言えるのだろうか。
香苗にとって阿久津教授は憧れだけだったのかも知れない。そのことを知っている人は誰もおらず、本人の香苗も分かっていなかったのだろう。
香苗と阿久津は離婚までにはそんなに時間は掛からなかった。阿久津が無理に引き留めたわけでもなかったし、香苗も無理な要求をしたわけでもない。
ただ、親戚縁者がややこしかったこともあって、離婚までには掛かった期間というよりも、精神的な苦痛の方がきつかった。
「離婚は結婚の何倍も労力を使う」
と言われるが、まさしくその通りだった。
それでも協議離婚が成立してから、二人は会うことはなかった。香苗はしばらくして田舎に帰ったという話を聞いたので、阿久津は、
――それならそれで安心だ――
と感じた。
また一人暮らしに戻ったわけだが、結婚前の一人暮らしと、離婚してからの一人暮らしとでは、同じ一人と言ってもまったく違った。どっちがいい悪いの問題ではないが、不思議と離婚して一人になったにも関わらず、それほど寂しいとは思えなかった。
一人が寂しいと思っていたのは、むしろ結婚前だった。ただ。結婚前までは、何事も前向きだったことは否めない。結婚までは自分が上昇機運にいつも乗っていて、下降気味になったとしても、本当に落ちることはないと思っていたので、逆に余計な不安があったのかも知れない。
しかし、離婚するとリアルに自分が下降していることが分かった。結婚の時点が有頂天だったということを、あの時いまさらながらに感じたのだった。
だが、リアルな下降は、余計な心配をすることはない。
落ちるところまで落ちたわけではないが、本人の意識としては、落ちるところまで落ちたような気がすることから、
――これ以上悪くなったらどうしよう――
という心配を必要以上にすることはない。
確かに、余計な心配は頭をよぎるのだが、本当に悪夢を味わっているという意識があると、必要以上な心配はしないものだ。
そのことを意識すると、離婚してからの阿久津は、いい意味で一皮むけたような気がした。
結婚するまでは、自分がまわりからどう思われているかが気になっていた。結婚してからは奥さんの視線を一番に感じ、まわりの視線はさほど気にならなくなったが、離婚してしまってからは、またまわりの視線が気になるようになるのではないかと思ったが、思った以上にさほどでもなかった。
阿久津教授は、奥さんの視線を気にしているようで、それほど気にしているわけではなかった。その頃からまわりの視線があまり気にならなくなったのかも知れない。
だからと言って奥さんの知らないところで何かをしようという意識はなく、
「妻に隠し事のないことが、俺のいいところなのかも知れないな」
とうそぶいていた。
だが、奥さんに隠し事がない代わりに、奥さんに気を遣うことはなかった。
「こんなことを言えば、奥さんは気を悪くするかも知れない」
ということを考えることはあまりなかった。
奥さんもそのことに触れることはなかったが、後から思えば、奥さんに甘えていただけではなかったのだろうか。
奥さんとの仲は、普通だったのだろうが、まわりから見れば「おしどり夫婦」だったに違いない。敢えてまわりに見せつけるようにしていたという気持ちは阿久津にはあったが、香苗の方はどうだったのだろう?
香苗は奥さんとしては、夫に尽くす方だった。それはまわりから見ても、阿久津が見ても同意見だったに違いない。阿久津は今まで知り合った女性の中で一番気を遣ってくれた相手が香苗だった。ただ、それは結婚してから自分の女性を見る目が変わったということに気付いていなかったからだ。
女性への見方が変わったことで、まわりへの見え方だけではなく、まわりから自分をどう見られているかが変わったということに気付いてはいなかった。何しろ、まわりに気を遣うことがなくなったことに影響しているのかも知れない。
阿久津教授は香苗と離婚してから女遊びをするようになった。一時期風俗通いもしたが、結局すぐに行くこともなくなった。本人としては経験程度のように思っているのかも知れないが、年齢を重ねれば重ねるほど、若い頃にはあった後ろめたさはなくなっていったのだ。
後ろめたさがなくなった割には、結構頭の中は冷めてきたような気がしていた。
「あまり人と関わりたくない」
という思いを抱くようになったのがこの頃からだったような気がする。
教授になってからしばらくは新婚生活を謳歌しながら毎日を楽しんでいたはずなのに、どこで狂ってしまったのか、阿久津は時々考えることもあった。
だが、考えたとしても答えが出るものではない。離婚前から人と関わりたくないという思いがあったのではないかと、最近になって考えるようになった。
香苗という女性の性格が分からなくなったというのが、自分の中での離婚の理由だったが、相手も似たようなことを言っていたっけ。
「あなたの考えていることが分からない」
最初に聞いた時、
「分からないとは何事だ」
と、怒っていた自分がいたが、その怒りがどこから出てきたのか、自分でも不思議だった。
ひょっとするとその時に、自分が香苗のことを分かっていないということに初めて気づいたのかも知れない。自分の中でドキッとしたのは間違いのないことで、その思いが初めて気づいたという証拠なのだということに、その時は気付いていなかった。