呪縛からの時効
「別に就職に有利だとかいうわけでもないのにね」
と言われていたが、その理由を何となくだが分かっている人は、
――そんな見方をしていれば、永遠に分からないさ――
と感じていた。
何となく分かっているその人も、
「何となくしか分からない」
ということに後ろめたさを感じていたが、結局は、
「そんな曖昧なところが教授の魅力なんじゃないかな?」
ということにしか結論を見いだせなかったが、結局はそこが本当の結論なのかも知れない。
教授の本当の年齢は五十歳を超えたくらいだった。学生たちから見れば、
「親よりの年上」
と言ったところであろうが、学生たちからは、
「年齢よりも若く見える」
と言われていた
それも男子学生からというよりも女子学生からの方が多く、思ったよりも教授のことを女子学生の王が注目して見ているようだった。
「阿久津教授って、ダンディなところがあるわ」
という女子学生もいれば、
「そうかしら?」
とわざとなのか、すかしたような言い方をする人もいた。
阿久津教授に関しては、いろいろなウワサがあった。いいウワサもあれば悪いウワサもあるのだが、大学というところも、他のところと同じように、悪い話の方が話が大きくなっている。
「背に尾ひれがついたような話」
という言葉をよく聞くがまさにその通り、あることないことウワサというおは、とかく厄介なものである。
阿久津教授の悪いウワサで一番酷いのは、
「女たらし」
というウワサであった。
大学教授というと女子大生とのウワサは絶えないものだが、阿久津教授の場合の何が厄介なのかというと、そのウワサノほとんどが、どこから出たものなのか、まったく分からず、いつの間にかそのウワサが消えていることだ。しかも、自然消滅などではなく、新しいウワサが後から出てくるものだから、前のウワサの信憑性などまったく関係なく、新しいウワサでそれまでのウワサが上書きされてしまう。
つまりは、ウワサがどんどん飛躍してしまい、教授に対して一度疑念を抱いてしまえば、その疑念を取り払うことなく、無限に広がっていくウワサに惑わされる結果になってしまうということだ。
阿久津教授は、そんなウワサが学内にあるのは十分に承知しているが、あまり気にしていないようだった。ウワサが立ち始めた最初の根源がいつからなのか分からないが、最初の頃はさすがに気になっていただろう。しかし、一度気にしなくなると気にならなくなるのか、人が気を遣うまでもなく、本人はあまり気にしていないようだった。
それでも、気を遣ってしまうのは、阿久津教授の性格からなのか、それが彼のいいところと結びついているのだとすれば、ウワサの信憑性はないと言ってもいいだろう。
もう一つ教授のウワサに信憑性がないというのは、これまでずっといろいろなウワサが流れていたにも関わらず、一度も問題になったことはない。だからこそ、教授の無実は確定的なのだろうが、ウワサが絶えないのは、誰かが故意にそんな根も葉もないウワサを流しているのかも知れない。
教授は、五十代になるまでに一度結婚経験があった。
教授になったのをきっかけに、当時付き合っていた女性と結婚したのだが、相手は学生だったわけでもない。高校時代のクラスメイトで、同窓会で偶然再会したことがきっかけで付き合い始め、数年の交際期間を経て結婚に至ったという、どこにでもある話であった。教授になるには年齢的にまだ若かったというのもあり、そんなに結婚が遅かったわけではなかった。
相手も同級生で、実はお互いに高校時代から惹かれあっていたということを、今になって明かすという純情物語だった。
最初にその話を始めたのは教授の方で、
「えっ、そうだったの?」
と声を荒げて驚いて見せたのが彼女の方だった。
相手は教授の気持ちをまったく知らなかったというが、教授にはそれは信じられなかった。教授も相手の気持ちをまったく分からずに告白できずに高校を卒業したが、彼女にも同じように、
「まったく分からなかった」
というと、相手はそれを聞いて大げさに驚いたのを見て、
――疑わしいな――
と教授は思った。
それだけに、相手の知らなかったという話に疑いを持った。
――自分が信じられないのだから、彼女も信じてくれないよな――
という思いが教授にはあった。
それだけ教授はウブだったと言えるのではないだろうか。
教授が女たらしだとウワサされるようになったのも、実はそんなウブなところが教授の普段からの内面を見せない性格とのギャップから、
「よく分からない人」
というレッテルを貼られることで、ウワサが根底に根付いてしまったのかも知れない。
しかし、教授になった頃はまだまだウブな面が表に出ていた。だから変なウワサは立っていなかった。
「教授昇進と結婚」
という人生の最高の節目を一気に手に入れたその時の阿久津教授は、人生の有頂天に立っていたと言っても過言ではないだろう。
だが、
「好事魔多し」
とはよく言ったもので、教授としての大学での地位は固まっていったのだが、プライベイトの面ではあまりよくなかった。
何が悪かったのか、教授は今でも悩むことがあったが、結婚してからわずか四年で、二人は破局を迎えた。
離婚は奥さんの方から一方的に言ってきたもので、
「私はもう限界」
という言葉が印象的だった。
何が限界だというのか、阿久津教授には見当もつかなかったが、最初は何が何か分からずに頭の中がパニックになっていた教授だったが、冷静になって考えると、さほど結婚生活に自分が未練を持っていないことに気が付いた。
教授は大学と家の往復ばかりで、ほとんど家にいることはなかった。
「家内が家を守ってくれている」
という、まるで半世紀以上も前の考え方を持っていた。
ただそれだけが離婚の理由だったわけではないだろうが、家庭を顧みらなかったのは事実だった。
奥さんも決して社交的な方ではなかった。どちらかというと目立たないタイプの女性で、それは高校時代から変わっていなかった。
そもそも、教授が彼女を好きになったのは、高校時代から控えめなところがあったことだった。同窓会で再会しても、それは変わっていなかった。
彼女の名前は香苗と言った。
香苗は同窓会で再会した時、それまで見せたことのないような笑顔で阿久津教授に話しかけてきたので、最初はビックリしたくらいだった、
「阿久津君、元気だった?」
阿久津はそう言われて、一瞬ビビッてしまった自分に気が付いた、
「あ、ああ。君か。香苗ちゃんも元気だった?」
「ええ、阿久津君は変わっていないわよね」
とそれまで自分に見せたことのないような大げさにも見えるリアクションに、阿久津は終始戸惑っていた。
確かに、
――俺は高校時代とそんなに変わっていないよな――
と思っていたので、変わっていないと言われて嬉しかった。
しかし、同窓会では、ほとんど会った人からは、
「阿久津、お前は変わったよな」
と言われていたので、余計に新鮮だった。
「いやいや、そんなことはない」
と言って頭を掻いて見せると、本人は、
――そんな言い方やめてほしい――