呪縛からの時効
空気が通り抜けているわけではない大きな空間なのに、真空を感じさせる佇まいに、五感が研ぎ澄まされるような気がしてくるのだった。
阿久津は絵を描きたいと思ったのは、そんな美術館の空間を好きになったからだ。
「自分の描いた絵が、こんな空間の中にあったら素敵なことだろうな」
と感じたのだ。
阿久津は、ここで感じた、
「素敵なこと」
という言葉を反芻してみた。
今まで素敵などという言葉を頭の中とはいえ、口にすることはおろか、思い浮かべることもなかった。
「素敵などという言葉は、男が軽々しく口にするものではない」
という根拠のない凝り固まりがあったのだろう。
美しいものを見て、美しいと言えないという感覚は、まわりの人が自分へのアドバイスのつもりで話してくれることを、
「ありきたりな常識的な話」
として片づけていたからである。
アドバイスを忠告としてしか受け取れなかったことが、そう思わせたのかも知れない。
しかし、阿久津はまわりの忠告を今でもあまり受け入れることはない。特にまわりから、
「常識」
などという言葉を言われるのが一番嫌いであった。
その次に嫌いな言葉としては、
「社会人として」
という言葉であった。
社会人というのは、一体どういうことなのだ?
一般的な人のことを言っているという意味なのかも知れないが、一般的というのもこれほど曖昧な言葉もない。つまり、
「都合のいい言葉」
でしかないのだ。
普通に仕事をして、ある程度の年齢になれば結婚して家庭を築き、子供ができれば、さらに家庭のために頑張って働く。
阿久津は、実際にそういうことを夢見て、子供の頃から大人になってきた。特に大学に入ってからはその思いに凝り固まっていたと言ってもいい。だから大学を卒業する前には、一抹の不安を抱いていた。
実際に二年生の時に、まわりと同じような行動をしていて、気が付けば自分だけが置いて行かれていたという思いは、今でもトラウマとして残っている。夢にだって何度見たことであろうか。
夢というのは何度も同じ夢を見ていると、
「これも夢なんじゃないか?」
と思うものだ。
実際にそう感じると、夢であることに疑いを抱くことはなく、そこから一気に目が覚めてくるのを感じる。つまりは、疑いを持った時点から、すでに夢から覚めていたと言っても過言ではないだろう。
夢を見ている時、
「これって夢だよな」
と思うことは今までに何度もあった。
そんな時は間違いなく夢であり、目が覚めた瞬間だと思うようになったが、どうして夢だと思うのかということに関して、言及することはなかった。一歩踏み込んでそこまで考えてみると、それなりに何かの結論に至ったのかも知れないが、敢えてそれをしないのは、答えを求めるのが怖いという思いがあったからなのではないだろうか。
夢を見るということは、自分の感情を夢で形にすることだと言ってしまうと、それが一番簡潔な答えなのかも知れない。
そこまでは阿久津だけではなく、他の人も認識していることだと思っていた。
つまりは、
「夢というのは、感情の形」
として把握されていると考えると、夢の中で感情を映像として見ているのだと気付くと、もう夢の世界にはいられなくなるということなのかも知れない。
それが夢を見ているということを正当化するための無意識の行動であり、夢の世界から現実世界に引き戻されるターニングポイントの一つなのではないだろうか。
夢というのは、
「どんなに長い夢であったとしても、目が覚める前の数秒で見るものである」
という話を聞いたことがあったが、まさしくその通りではないだろうか。
阿久津が見る夢で、実際に夢を見ていると感じる時というのは、圧倒的な大学時代の夢が多い。それ以外に感じる夢もあるのだろうが、印象深く残っているのは、大学時代のことばかりであった。夢の中に香苗が出てくることはない。彼女はすでに過去の人だと思うのだろう。だから、阿久津にとっての直近の過去が大学時代なのだというのは性急すぎる結論であろうが、その頃の思いが今の阿久津を形成しているのかも知れない。
大学院に進み、助手から助教授、そして教授へと順風満帆と言ってもいいくらいの仕事での成果も、私生活の荒れ具合とを比較すると、全体的に見て、中和されるとちょうどいい塩梅なのかも知れない。そう思うと、阿久津は、
――俺の人生なんて、皮肉なことばかりなんだ――
と感じないわけにはいかなかった。
そんな阿久津に、
「第二の人生」
が訪れたのは、四十歳代の後半になってからだった。
きっかけは、後輩の助手に連れて行ってもらったスナックだった。それまでにもスナックにはたまに通っていたが、あまり酒の飲めない阿久津は、一人で出かけて、マイペースで飲むだけだった。常連と言えるくらいではあったが、他の常連客と話をすることもなく、ただその場所にいるだけという程度で、まわりからもあまり意識されていなかった。
離婚してからの阿久津は、気配を消すことができるようになった。
いや、できるようになったわけではなく、最初からできていたものが鮮明になっただけのことだった。それまでは研究室で研究員としての確固たる立場があったので、あまり人と話をしなくても存在感は十分にあった。助教授から教授に上り詰めても、彼自身というよりも名声や立場が彼を形作ってくれていたので、自分から目立つ必要はない。その方がまわりからの心象もよかった。
「阿久津先生って実に謙虚でいらっしゃる」
と言われていた。
ここで性格が意固地であれば、
「堅物」
というイメージが植え付けられるのだが、そういう角があるわけではないので、教授としての好印象を持たれていたのは幸いだったのだろう。
飲みに行ってもまわりに溶け込むことはなかったが、それが却って一線を画したことで、威厳を持ったように迎えられるのだ。これを幸いと言わずに何というだろう。
彼の助手は阿久津の若い頃に比べて、かなり遊んでいるようだった。
大学生活を満喫して、そのまま大学院で助手という形で残り、研究も怠ることはないので何ら文句もない。自分の若い頃を思い出し、少し羨ましく感じられる阿久津だった。
だからと言って、自分の若い頃を後悔しているわけではない。あの頃に自分の将来をそれほど想像することもなかった。毎日の研究に一生懸命で、
「毎日を一生懸命に生きていれば、きっと将来、後悔することのない人生を歩めるに違いない」
と思っていた。
実際に順風満帆とまではいかないまでも、自分がゆっくりではあるが、上昇気流に乗っているという自覚はあった。まさか下方修正させられる時期がやってくるなど、想像もしていなかった。
だが、想像していなかったというのは言い過ぎかも知れない。自覚していないだけで、嫌な予感というのは頭の隅に絶えずあった。
「好事魔多し」
という言葉も意識していないわけではなかった。
いいことがあれば、心のどこかで、不安が燻っていたのも事実だった。
有頂天の時期には、心の葛藤もあった。
「夢なら覚めないでほしい」
という思いと、
「こんなに幸せでいいのか?」