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呪縛からの時効

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 そうなると、何を言っても無駄であり、平行線が交わることは決してない。時間だけが無駄に過ぎていき、それをどう感じるか、二人の間でも温度差が激しかったに違いない。
「もう、お互いを修復することはできない」
 阿久津がそう思った時、初めて香苗の気持ちに触れることができたのであろう。
 何とも皮肉なことであるが、離婚というのはそういうものなのかも知れない。
「離婚は結婚の何倍も労力を要する」
 と言われるが、まさしくその通り、
 いつの間にか同じ空間にいても、進む時間のスピードが違っていた。すれ違いはそのあたりから来ているのかも知れない。
 妻の香苗が離婚を言い出してから、阿久津は香苗とほとんど話をしていない。
「私、あなたと離婚したいの」
 香苗の言葉は刺々しかった。
 こんな刺々しい香苗の声を聞くことになるなど、阿久津は思ってもいなかった。香苗が阿久津と同じように躁鬱の気があることは分かっていたが、そんな時は、香苗の方から何も言わない時がほとんどだった。
 ただ、阿久津と香苗は日ごろからほとんど話をすることはなかった。それは結婚生活の基本として、
「お互いのプライバシーは守る」
 ということが暗黙の了解であったからだ。
 お互いのプライバシーを守りたいという話を最初にしたのは阿久津の方で、香苗も黙って頷いた。それがいつの間にか暗黙の了解となったわけだが、その気持ちは二人で共有しているつもりだった。
 阿久津は香苗にほとんど意見を求めることはなかった。それは相手の気持ちを尊重しているという思いと、
「何か問題があれば、彼女の方から話してくれる」
 という思いが強かったというのが阿久津の考えだった。
 しかし、本当は逃げていたのかも知れない。
 下手に藪をつつくような真似をしたくないという思いが強く、気持ちの中では、
「何も言わないでくれ」
 と思っていたのだ。
 香苗の方がどう感じていたのか阿久津には分からなかったが、香苗も同じようなことを考えていたのだとすれば、永遠に交わることはない。二人で一緒に同じ方向を向いていたとしても、たまには顔を見合わせなければ、相手がそばにいるという意識すらなくなってしまうのではないだろうか。
「女って、何か重大なことを言い始めた時って、その時にはすでに気持ちは決まっているものなんだぞ」
 という話を一度聞いたことがあったような気がしたが、それを聞いた時は、結婚する前の婚約機関くらいだったような気がする。
 本人とすれば、一番有頂天になっていた時期にそんな話を聞いても、ピンとくるはずもないというものだ。
 だが、そのことを思い知らされる得がやってくるなど、阿久津は思ってもみなかった。婚約期間中にそんな話を聞いたというのを思い出したのは、すでに離婚が決まってからのことだった。後の祭りとはこのことである。
 実に皮肉なことだ。アドバイスが後の祭りになるということは往々にしてあることなのだろうが、身に染みてみると、これほど運命を呪いたくなるものだということに初めて気づかされる。しかし、すべては自分が蒔いた種だということを離婚してから感じた時に思い出したことであった。つまりは、後の祭りというのは偶然ではなく、必然に訪れたことなのだ。
 阿久津にとって妻の香苗との結婚生活は何だったのだろう?
 妻から離婚を言い渡されるまで、会話が少なくなっていたことに何ら不安も感じていなかった。阿久津にしてみれば、
「青天の霹靂」
 だったのだ。
 しかし、その時にはすでに香苗はずっと悩んでいたのだろう。阿久津はそんなことも知らずに、
「妻が家庭を守ってくれている」
 などと甘い期待を抱いていたのだと思うと、自虐的な思いに駆られてしまう。
 妻の実家で説得した時、
「お前だって、仲良かった頃の思い出があるだろう?」
 と言って説得したのだが、それをどんな気持ちで香苗が聞いていたのかと思うと、その状況を客観に見ると、阿久津という男がどれほど情けない男なのかと思わないわけにはいかないだろう。
 それだけに自虐的にもなろうというものだ。
――こんなにも恥ずかしいことを口にしていたんだ――
 と思うと、顔が真っ赤になってしまって、自分だけが取り残されたということを痛感させられる。
――何をいまさら言っているのよ――
 と妻は感じたことだろう。
――そんなことは、とっくの昔に私は考えていたわよ。それを今頃になって言い出すんだから、どうしようもない夫よね――
 と思っていたに違いない。
 妻を説得に行った阿久津は、妻ならきっと説得に応じてくれるという自信が最初はあった。
 しかし、二度目、三度目になるにつれて、その思いが次第に薄れていく。
「それなのに、どうして何度も説得にいくのか?」
 と聞かれたとすれば、
「回数を重ねることで、情に訴えることができる」
 という答えしかできないだろうと思った。
 もちろん、さすがにそれを口にすることなどできるはずもないが、次第に自分が打てる手が少なくなっていることに気付いていた。説得に応じる気配はないと思った瞬間から、考えは後ろ向きになってしまう。
「このまま離婚になってしまったら、どうすればいいんだ?」
 今度は離婚前提に考えなければいけないところまできていた。
 子供がいないことも自分には不利に感じられた。子供がいれば、
「子供のために」
 という一縷の望みもあったであろうに。
 ただ、子供の問題は最後の手段だった。いわゆる「特攻」のようなものである。
「夫婦の問題に子供の話を持ち出すことはタブーなんだ」
 と阿久津は思ったが、それは子供の問題がリーサルウエポンだと思ったからだ。
「何よ。今度は子供を持ち出す気?」
 と言われてしまえば、何も言い返せなくなると思っていたからだ。
 それを口にするということは一か八かであり、失敗すれば、もう後がないということなのである。
 だが、阿久津が香苗から、
「離婚したい」
 と言われた瞬間から、すでに終わっていたということに気付いていなかった。
 香苗は離婚を口にするまでに、相当悩んでいたということを他の人から聞いたことがあった。
 阿久津は知らなかったが、彼女は彼女なりに、まわりの人には相談していたようだ。それも離婚という言葉を阿久津に告げる半年以上も前からのことであるという。
 ということは、香苗としても最初からまわりの人に相談したわけではないだろう。ある程度自分の中で結論めいたことを持ったうえで、相談していたはずだからである。
 そうでなければ、相談した相手が自分の意見と反対の意見を口にすれば、また迷ってしまうに違いないからだ。
 相手が一人であればまだしも、複数の相手であれば、離婚という現実に対しては二者択一であるとしても、考え方は人それぞれ、相談した相手の数だけ考え方があるというものだ。
作品名:呪縛からの時効 作家名:森本晃次