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呪縛からの時効

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 それは自分が鬱状態に入る時であった。
 鬱状態に入るという意識があるわけではないのに、実際に前兆を経て、鬱に入る瞬間が分かるのだ。それが、
「夕凪の終わる瞬間」
 を思い出すことができるからであった。
 その瞬間を思い出すことで、自分が鬱状態に入り込む。しかし、夕凪の終わりを忘れない日があっても、そこから鬱に入り込むということはない。むしろ、鬱に入り込まない時の前兆であって、ホッとする瞬間でもあった。
 阿久津は夕凪の時間に終わりを告げると、今度は夜のとばりが下りて、一気に夜がやってくる。
 真っ暗な闇夜というわけにはいかない。最近でこそ、昔のようなケバケバしいネオンサインはなくなってしまったが、相変わらず都会は、
「眠らない街」
 の様相を呈している。
 阿久津は夜が来ると安心する。だが、ホッとするわけではなく、それまでの憂鬱な気分が晴れてくるのを感じた。別に鬱状態から抜けたわけではない。しかし、一日の中で唯一夜への入り口だけが、鬱状態の中で普段の生活に一番近づける時間であった。
 それまで掻いていた汗もいつの間にか引いてしまっていて、さっきまでの気だるさはどこへやら、いくらでも身体が自分の言うとおりに動いてくれそうな気がするのだ。
 夜というのがこんなにもサッパリとしたものだということに初めて気づいた気がした。それを気付かせてくれたのが、その時の鬱状態だというのは皮肉なことだったが、理由がないわけではない。
 鬱状態によって一緒に気付かされた夕方から夕凪にかけての時間があれほど鬱陶しいものであり、身体に纏わりつく気持ち悪さが、身体の気だるさをともなって、まるで発熱時のような意識を曖昧にさせることで、余計にとばりの下りた夜が、サッパリと感じさせっるものとなったのだ。
 昼と夜の大きな違いは、昼間にはぼやけてしか見えなかったものが、夜になると、くっきりと見えるような気がするということだった。理屈を考えると昼間の方がハッキリと見えて当たり前なのだが、常識では図ることのできない時間が鬱状態なのだとすると、十分にありえることだった。
 それを顕著に感じるのは信号機だった。
 信号機の三色の色を見ていると、黄色は別に変わりはないが、赤と青は昼間とはまったく違っている。
 昼間の青は緑に見えて、赤は少しピンク掛かって見えるような気がする。あくまでも個人的な見解と言われればそれまでなのだが、普段の阿久津であれば、そこまで顕著に感じることはなかったであろう。
 しかし鬱状態になってからの阿久津は、夜の青は真っ青に見えて、赤は真っ赤に見える。それはまわりに比較する色がないということも、まわりが真っ暗だという理由で納得できるものなのだが、納得できる以上のものを感じていた。
 それとも、阿久津は自分が納得できると自覚できたものに対しては、納得以上にハッキリとした感覚を感じることができるのかも知れない。
 阿久津にとって鬱状態は悪いことばかりではなかったのかも知れない。もちろん、精神的には最悪で、ロクなこともなかったが、終わってしまってから後で思い出してみると、それほど実質的な悪いことは起こらなかったような気がする。
 それは鬱状態というものを自覚することで、十分な備えを自分の中で持つことができたからではないかと思うが、それだけではないのかも知れない。実際に鬱状態の時、
「最悪だ」
 という意識がある中で、意外とポジティブに考えていた時もあったような気がする。
 その理由としては、
「鬱状態を抜ける時が分かる気がする」
 という思いがあったからだ。
 永遠に鬱が続くなどということは毛頭思っているわけではないが、一旦ネガティブになってしまうと、そこから抜け出すにはかなりの時間と労力を費やすと思い、それなりの覚悟が必要なはずである。
 阿久津にその覚悟があったのかどうか、本人には自覚はないが、実際にはあったのだろう。それもきっと阿久津の中で、
「抜ける瞬間が分かる」
 という思いがあるからで、それが自信に繋がって、ポジティブな考えを持つことができるのかも知れない。
 人はポジティブにものを考えることができている時でも、ネガティブに考えてしまうものだ。だが、逆にネガティブに考えている時は、あくまでもネガティブにしか考えられない。ネガティブを基盤にポジティブにはなれないものだと阿久津は思っていた。
 しかし、鬱状態の時だけは違っていた。ひょっとすると、
「これ以上、落ちることはない」
 と、最底辺にいるという自覚を持っているのかも知れない。
 だからこそ、ポジティブにも考えることができるというものだし、鬱状態から抜ける瞬間が分かると思っているのだろう。
 阿久津は自分が車を運転したことはない。まだ免許を持つことができない年齢なので当たり前のことであるが、人の運転する車の助手席にはよく乗ったものだ。
 阿久津が鬱状態から抜ける時の感覚として頭の中に描く光景があった。それが、車で走っている時に突入したトンネルを抜ける時だったのだ。
 長いトンネルでは、ハロゲンランプの黄色いネオンで照らされていて、表とはまったく違った雰囲気を醸し出している。阿久津には黄色いネオンが、まるで鬱状態に陥った時の夕方から夕凪にかけての時間を彷彿させるものであった。
 トンネルの中で、黄色いネオンを走り抜けている間、時々息苦しさを感じることがあった。いつもいつもというわけではないが、トンネルが長ければ長いほど、呼吸困難に陥っているようだ。
 まわりからは阿久津がそんな状況に陥っているということを知る由もないのだろう。誰も、
「大丈夫か?」
 と声を掛ける人はいない。
 足が攣った時のように、人に声を掛けられるのは嫌だと思っている阿久津にとってはありがたいことだったが、誰も気づいてくれないというのも寂しい気がして、複雑な思いに見舞われていた。
 しかし、阿久津の中で気持ち悪いのは拭い去ることはできず、感じていることとしては、
「絶対に抜けるんだ」
 という思いがあるだけだった。
 抜けることは鬱状態を抜けるということよりも確実なはずなのに、鬱状態を抜けるという感覚よりも、信じられない気分であった。
 トンネルの中で気持ち悪く感じるのは、トンネルの中を最初から鬱状態と同じだと感じていたからなのかも知れない。トンネルの中で呼吸困難になるのは、比較的幼児の頃からだったような気がする。そんな小さかった頃から鬱状態を引きづっていたなどありえないと思っているので、何か釈然としない気持ちになっていた。
 トンネルの中というのは、ずっと黄色い色が同じような明るさというわけではない。蛍光灯のような明かりが、一定の距離に設置されているのだから、明るい場所と暗い場所が同居している。つまり明るいエリアを抜けると暗いエリアに入り込み、またすぐに明るいエリアに抜けるという次第であった。
 そんな循環が、阿久津を鬱状態を思わせるのだとすると、鬱状態に入っている中でも明と暗が同居しているのかも知れない。、
作品名:呪縛からの時効 作家名:森本晃次