小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

呪縛からの時効

INDEX|15ページ/28ページ|

次のページ前のページ
 

 ただ一つ言えることは、
「足が攣る時というのが、その前兆が分かるものだ」
 ということであった。
 眠っていて、
「あっ、来る」
 と感じると、その時夢を見ていようが見ていまいが、一瞬にして目を覚ますことになる。
 眠っていて夢を見るという頻度がどれほどのものなのか想像もつかなかったが、
「たぶん、自分で思っているよりも、夢って見ていないんじゃないかな」
 と阿久津は思っていた。
 足が攣った時、一気に目を覚ましてしまうが、その時夢を見ていたのかいなかったのか、目が覚めてしまって思い出そうとすると、不思議とどちらだったのか、分かっていたりするものであった。
 足が攣る時というのは、その場所はほとんどの場合がふくらはぎだった。
「足が攣った時には、痛いのを我慢してでも、足首を回すようにすれば楽になるよ」
 と言っていた人がいたが、実際にはそんなことができるような余裕はない。
 身体を曲げて、足の指先に触れることすら苦労する。そんな状態なのに足首を回すなど、ハードルが高すぎるのである。
 痛みのある場所を触ってみると、想像以上に熱を持っていることを感じる。何しろ痛みのせいで足の感覚はマヒしているのだから、外部から触った感触が分かるはずはない。痛みはすべて体内から発散されるもので、こんなに熱くなっているなど、まったく分かっていなかった。
 さらに、カチンコチンに固まっていた。しかも、まるでヘビが獲物を丸呑みにしたかのように患部だけがプクッと膨れ上がっているのだ。
 そこで、
「おかしい」
 と感じた。
 何がおかしいのかというと、そんなに膨れ上がっているのであれば、足はプヨプヨに柔らかいという印象が強かった。
 硬直しているのであれば、もっと細くなっていて不思議はなく、逆に膨れ上がっているのであれば、プヨプヨしていて不思議がないという感覚である。
 もちろん思い込みには違いないのだが、その思い込みがどこから来るものなのか、痛みを感じている臨場感の中で感じるなどありえないと思った。
 そもそも痛みを感じている時に、何かを考えるというのはおかしな感覚だと思うのだが、冷静になって考えると、それもありではないかと思うのだった。
「痛みを伴っているのだから、それを何とか発散させようとすると、何かを考えるのも無理もないことではないか」
 と思った。
 だが、逆も考えられる。
「痛みに苦しんでいる時、何かを考えると、却って痛みが増してくるのではないか」
 という思いである。
 阿久津は後者の方が強く感じていた。それは、
「足が攣った時は、誰にも知られたくないし、気付かれて心配されたくない」
 と思うのだ。
 変に心配されると、痛みを逃がそうとしている自分に痛みを逃がさないように、まわりから口激されているように思うのだ。だから、痛みには一人で耐えることを覚えた。ひょっとすると、足が攣る時、寝ている時が多いのは、
「足が攣るのであれば、誰もいない自分だけの世界であってほしい」
 と感じているからではないかと思う。
 阿久津が、鬱状態に陥るようになったのが、この足が攣るという現象が起き始めた時であったというのは、ただの偶然であろうか。
 偶然であったとしても、阿久津の意識の中で、この二つがほぼ同時期から始まったという意識を忘れない限り、ただの偶然だという言葉で片づけられないものではないだろうか。
 阿久津は足が攣る時も、鬱状態に陥る時も、
「その両方で前兆のようなものを感じる」
 と思ったことが、偶然ではないという証明のように感じていた。
 阿久津には、そんな偶然とも思えるようなことが必然だと感じるような時が、そして、その証明となるかのようなエピソードも他にあるような気がしている。だが、それが表立って見えることはない。ふとしたことで気付くことはあるのだろうが、次の瞬間には忘れてしまっている。きっと、
「忘れるべくして忘れたことなのだろう」
 と思えるようなことではないかと思うのだが、足が攣るという状況と、鬱という状態の関連性ほど深いものではないと思えた。
 阿久津は自分の鬱状態がそれから定期的に起こってきたことと、鬱状態と鬱状態の間には、躁状態というものが存在していることを自覚していた。鬱状態と思い出すということは躁状態を思い出すことでもあり、それを躁鬱症というのではないかと思ったが、それが一般的にいわれる躁鬱症と同じものなのかどうか、ハッキリとは言えない気がした。
 それは、一般的な躁鬱症というものを知らないからであり、
「知らないものを相手に比較するというのは愚の骨頂だ」
 と感じたからだった。
「躁状態では、普段なら面白くもないことなのに、笑いが止まらなくなったり、鬱状態になると、何をやっても面白くない」
 などという話をよく聞くが、まさにその通りだった。
 それなのに、すぐにこの状態を躁鬱症だということを感じなかったのは、自分の中で躁鬱症という病いを認めたくなかったからに違いない。
 そういう病気があることは当然知っているが、それが自分の身に降りかかってくるなどということを認めたくない。そんな思いが阿久津の中にはあったのだ。
 躁状態と鬱状態とでは明らかに違っているのは、まわりの見え方の違いではないだろうか。躁状態の時は別に気にならないが、鬱状態の時には明らかに普段とは違う見え方をしてしまう。
 例えば、同じ光景を見ているのに、鬱状態の時には、黄色掛かって見えたりしているのだ。
 さらに時間帯によっても気分が違っている。
 昼間はさほど普段と違わないが、夕方になると、黄色掛かって見える光景がさらに顕著になり、夕日を通して、埃が光っているように見える。まさしくスターダストと言っていいだろう。
 当然綺麗なものではない。目の前に浮かび上がる埃を見て感じることは、まず身体のだるさだった。
 思ったよりも力が入らず、自分では動いているつもりなのに思った以上に進んでいない状況は。まるで空気という水の中を抵抗を受けながら進んでいるような気がしてくるのだった。
 汗が噴き出すように身体にまとわりついてくる。そんな状態で入らない力を必死に引き出そうとすると、さらに身体が重たくなる。そんな悪循環を繰り返していると、目の前が次第に、眩しくなってくる。
 その眩しさを感じると、それまでにまとわりついた汗で身体が本当に動かなくなる。
「夕凪の時間」
 というのを聞いたことがあったが、
「夕方のある一定の時間、風の吹かない時間帯がある」
 というものであった。
 それがどれほどの時間なのか分からない。その時々によってまちまちだったような気がするが、夕凪の中にいる時は、一定の時間だと思っていた。なぜなら、夕凪から抜ける時間が分かるからだった。
 これは、鬱状態に入る時に前兆を感じるというのと似ているような気がした。しかし、夕凪の時間が終わる時には、その前兆を感じるわけではない。感覚的に夕凪の時間が終わるということを感じるだけのことだった。そこには何ら根拠があるわけではないので、阿久津はその思いを夕凪が訪れた時間にしか感じることができないでいた。
 だが、もう一パターン感じることができる時があった。
作品名:呪縛からの時効 作家名:森本晃次