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呪縛からの時効

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 阿久津もまんざらでもないという気持ちになっていた。その頃は香苗を彼女の候補として見ていたわけではないので、緊張することもなく、お互いフレンドリーに会話ができた。阿久津がフレンドリーにしていることで彼女もフレンドリーになれるのだから、彼女の方も阿久津を彼氏候補として見ているわけではなかっただろう。その時は本当にいい関係で、その証拠に別の日になってから、お互いに声を掛けることもなかった。
 それから卒業までほとんど話をすることはなかった。元々雨の日の偶然も、卒業まで数か月と言ったところだったので、進展するには、二人には短すぎたのかも知れない。
 阿久津は高校時代にはさすがに彼女のことが少しは気になっていたが、卒業してしまうと、ほとんど忘れてしまった。日ごろ顔を合わせていた相手と、もう顔を合わすおとがなくなって、意識が遠のいてしまったのだから、高校時代に意識していたとしても、それは恋心とは少し違ったものだったのだと、阿久津は思っていた。
 高校を卒業し、大学に入ると、
「高校の頃のような暗い自分とはおさらばだ」
 と思っていた。
 実際に友達も増えたが、二年生になって自分というものを思い知らされたことで、阿久津は我に返ったのだが、だからと言って、元々あった性格が変わってしまったわけではない。
 むしろ、それまで隠れていた性格が顔を出したと言ってもいいだろう。
 阿久津と香苗の出会いは、運命だったと言ってもいいかも知れない。二人が初めて参加したのが同じ同窓会だったというのも偶然としてはできすぎていた。しかも、声を掛けてきたのが香苗の方だったのだ。香苗の方も、
「相手が阿久津君だと思ったから声を掛けたのよ」
 と、本当は最初から誰なのか分かっての確信犯だったようだ。
「俺も分かっていたさ」
 と阿久津も答えたが、本当は分かっていなかった。
 見栄を張ったのだが、その見栄を香苗の方が分かったのかどうか、今も阿久津には分かっていない。
 同窓会が終わってからのアプローチは、阿久津からのものが圧倒的だった。
 押しに弱いように見える香苗だったが、実際には少々誘いかけたくらいでは。なかなか靡かないはずなのに、阿久津からの誘いを断ったことはなかった。
 本当に用事のある時は断ったが、少々無理をして阿久津に会いにきたこともあったくらいだ。
 阿久津にとっては、さりげない誘いだったのだが、香苗にとっては阿久津よりも少し重たい気分だったようだ。男性と女性の違いにもよるのだろうが、香苗はそれだけ阿久津のことを真剣に考えていたようだ。
 香苗は三十歳を過ぎるまで、男性とお付き合いをしたことがないと言っていた。それは香苗が思っているお付き合いにレベルが達していなかっただけで、実際には相手にとっては彼女だと思っていたということなのかも知れない。香苗は阿久津との付き合いを真剣に考えていたことで、阿久津はその真剣さを次第に感じるようになってきたが、その時にはすでに阿久津も香苗を好きになっていたので、阿久津が香苗を重たく感じるということはなかった。
 そういう意味では二人の間での結婚までの障害は、何もなかったのだ。
 だが、二人が付き合った時期は結構長かった。同窓会で再会してから結婚するまでに、三年以上はかかっただろう。お互いに三十後半に差し掛かるので、先に意識し始めたのは香苗だった。
 さすがに、最初から真剣な気持ちでいた香苗には、三年という期間は長かったに違いない。
「ねえ、私たち、これからどうなるの?」
 これが香苗の言葉だった。
 阿久津は一瞬で我に返った。
「俺もいろいろ考えているよ」
 言い訳がましいが、阿久津にはそれ以上のことは言えなかった。
 それを聞いた香苗は少し寂しそうな表情になったが、それは、阿久津の気持ちを思い図った時、少し危険な香りを察したからなのかも知れない。
 しかし、それからの阿久津の行動は早かった。
 香苗の方の親への説得にはさほど苦労はなかったが、阿久津の方の親は少し抵抗があった。結婚が決まってしまうと、阿久津の親の方が積極的になったことを思うと、阿久津の親は香苗に対してというよりも、阿久津の覚悟のようなものを知りたかったのかも知れない。
「何しろ、男としての責任があるからな」
 と、結婚してから父親と結婚前の話をしたことがあったが、父親は、いまさらながらと言いながら、笑い話として話してくれた。
 結婚してから父親と、
「大人の会話」
 をしたような気がしたが、次第にそんな父親ともなかなか会う機会がなくなった。
 阿久津のことを、
「もう大丈夫だろう」
 と思ったかも知れないが、まさか結婚してから五年ほどで息子夫婦が破局を迎えるなど思ってもみなかった。
――二人の夫婦生活のピークって、いつだったんだろう?
 と阿久津は思った。
 結婚してすぐに話をした時、
「お互いにあまり干渉しないような自然な仲でいられればいいな」
 と阿久津がいうと、
「そうね。私もそれがいいと思うわ」
 と言い返してくれた。
 ただ、阿久津が一つ気になっていたのが、二人の間に子供がいないことだった。
 阿久津としては子供がどうしてもほしいというわけではなかったが、香苗のことを考えれば、彼女が欲しがっていると思っていた。だが、本人に確認してみると、
「私もこんな年になっちゃったから、私は無理にほしいとは思わないわ」
 と言っていた。
 どちらかというと、その話題に触れられたくないというイメージだったが、思ったよりも寂しそうな表情ではないことで、彼女も子供に関しては自分と同じような考えなのではないかと思うと、ホッとする気分になっていた、
 二人は結構仲睦まじい関係であった。見た目も、そして実際にも仲はよかった。お互いのことをあまり干渉しない関係が功を奏していると二人とも感じていたことが、仲の良さを演出しているのだろう。
 実際に香苗も阿久津も自分の世界を謳歌していた。香苗は趣味を持っていて、近所の奥さん連中と俳句の会に参加しているようだった。
 俳句というものは学生時代に一度興味を持ったことはあったが、クラスメイトに俳句などが好きだというと、きっとバカにされるだろうという思いから、俳句をする勇気がなかった。だが、新婚生活を迎えて一人で家にいるだけというのも、次第に退屈になってきた。
 さすがに最初の頃は掃除や食事の支度などの家事に追われて、それなりに充実していたのだが、それも慣れてくると、次第に退屈になってきた。いわゆる貧乏性というものなのかも知れない。
 貧乏性という性格は、阿久津にもあった。阿久津の方の貧乏性は分かりやすい方なのだろうが、
「好きな人には知られたくない」
 という思いから、香苗の前では出さないようにしていた。
 仕事場では結構表に出していたので、家で出さなくても平気だというのも、不幸中の幸いだったと言ってもいいだろう。
 阿久津にとって新婚家庭というものは、安らぎの場でもあったが、隠れ家としての場所ではなかった。逆に家でゆっくりできる反面、あまりリラックスしすぎて、自分の本性を表に出さないようにしなければいけないという緊張感を絶えず持っていないといけない場所でもあった。
作品名:呪縛からの時効 作家名:森本晃次